CALL



    桜咲く四月───薄紅色の花が咲き誇る今日は、中学校の入学式が開かれる日だった。
   啓介はついに念願の中学校に入学した。まだ小学五年生だった二年前から、通いたくて通いたくて仕方
  がなかった中学校だ。
   とはいっても別に私立でも何でもない、ただの近所の中学校だ。
   啓介が一日でも早く通いたかった理由は簡単───兄の涼介が通う学校だからだ。
   二つ年上の啓介の兄は今年、中学三年生になった。
   二年前、涼介が中学校に通いはじめた時、まだ小学生だった啓介はそれが不満だった。
   今まで同じ小学校にいた涼介がいなくなってしまったからだ。
   同じ小学校でも学年が違うため学校内で涼介と会う機会はそうそうなかったが、それでも朝夕の通学路
  は一緒だった。
   けれど小学校と中学校では、校舎の建っている場所が違う。通学路も別々だ。
   学生服を着て中学へ通う涼介と毎朝別れるたびに、早く中学生になりたいと啓介は願っていた。
   そしてようやく今日が来たのだ。
   入学式に出席するために、啓介は初めて学生服を着込んだ。
  「うわー、ブカブカだ」
   成長期を考慮してあつらえた、袖も裾も大きめの中学の制服。
   鑑に映して自分を見てみたが、なんだかしっくりこなかった。似合わない訳じゃないと思うが、なんだかひ
  どく仰々しく感じられるのだ。
   涼介の学生服姿を思い返す。
   中学生なら誰もが着る制服ではあるが、涼介が制服を着た姿はやけにカッコよくてハマっていた。
  「俺もそのうち兄ちゃんみたいになれるのかな……」
   啓介はこっそりと首を傾げたが、まあいいかと考えるのをやめにした。
   毎日着ていれば少しは見慣れてくるだろうし、それに涼介と同じ学生服を着るのは、密かに啓介の憧れ
  でもあったのだ。
   嬉しいような───気恥ずかしいような、不思議な気持ちだった。
   入学式は午前九時からのため、今日は涼介はひと足先に家を出ていた。しかし明日からは同じ制服を
  着て、同じ学校に通えるのだ。
   とはいえ二年の年齢差のため、一緒の学校に通えるのは一年間でしかない。
   けれどそれでも、啓介は嬉しかった。


   入学式は中学校の体育館で行われた。
   厳粛な雰囲気の中で行われたそれは、主役の新入生たちには退屈なものでしかなかったが、皆おとな
  しく我慢していた。啓介もその中の一人だった。
   校長やPTA会長の、祝辞という名の長い長い話は終わりがないように感じられた。ようやく壇上の一人
  が話を終えたかと思ったら、また別の人の話が始まるらしく、啓介は周
  囲の新入生たちと同様、内心うんざりとしていた。
   しかし壇上に立った人の姿を見て、啓介は小さく驚きの声をあげた。
  「兄ちゃん……!」
   それは涼介だった。壇上に上がったのは生徒会長として、在校生代表の祝辞を述べるためだった。
   そういえば前年、涼介は生徒会の選挙で生徒会長に選ばれていた事を啓介は思い出した。
   しかし入学式に出席する事など一言も言っていなかったため、啓介は心底驚いた。
   それまでのかったるさはどこへやら、啓介は身を乗り出すようにして壇上の涼介に注目した。
   そのために啓介は気がつかなかったが、涼介に注目したのは啓介だけではなかった。
   なにしろ壇上に立つ生徒会長は見目麗しく、そして凜として恰好よかった。
   新入生や保護者が集まった体育館のあちこちから、感嘆のため息があがっていた。
   特に新入生の女子生徒の大半が、内心浮足立っていた。そして恐ろしい事に、男子生徒の中にも落ちつ
  かない様子の者が何人か見られた。


   涼介の祝辞は二、三分程度の簡単なものだった。
   現金なもので啓介はもっと聞いていたいと思った。
   程なくして入学式は終わり、啓介たち新入生はそれぞれの教室へと移動するように教師たちから指示さ
  れた。
   ゾロゾロと体育館を後にする───その途中、啓介に声をかけてくる者があった。
  「なあなあ」
  「?」
   横に並んだ者を見れば、それは新入生の男子の一人だった。顔も名前も知らないが、入学式で啓介の
  前の席に座っていたはずであったから、啓介と同じクラスのはずだった。
  「さっきの生徒会長、お前の知り合い?」
  「何で知ってんだよ」
  「お前、なんか驚いていたじゃん」
   壇上に上がった涼介を見て啓介は驚きの声を上げたが、自分では小さな声のつもりだった。けれど前の
  席に座っていたクラスメートの耳には届いてしまったらしい。
   ちょっと照れくさかったが、すぐに啓介は答えた。
   「俺の兄ちゃんだよ」
   誇らしげに啓介は言った。なんといっても涼介は自慢の兄なのだ。
   しかしそれを聞いたクラスメートは目を丸くした。
  「兄ちゃん……?」
  「そう、兄ちゃん」
   繰り返し答えた啓介であったが、クラスメートは何を思ったのかいきなり笑いだした。
  「お前、まだ『兄ちゃん』なんて呼んでんのかよ。ガキだな〜」
  「え?」
   いきなり笑われて、啓介は驚いた。呆然としながら隣を見つめた。
   クラスメートは何がそんなに面白いのか、ケタケタと笑い続けていた。周囲にいる新入生たちも、何事か
  と振り返っていた。
  「……なにがおかしいんだよ!」
   訳はわからないが笑われて気分のいい人間はいない。ついに我慢のできなくなった啓介は、クラスメート
  の頭を平手で張り倒した。
  「いってえ! 何すんだよ!」
   叩かれた方もおとなしくはしていず、お返しだとばかりに啓介の肩を突き飛ばした。しかし啓介もまたすぐ
  にやり返した。
   ついに二人はケンカを始めた。周囲の新入生たちは一歩退いてそれを眺めていた。
  「そこの二人、何やってるの!!」
   程なくして担任の女性教師がやってきて、慌てて二人を引き離した。


   他の新入生たちは教室に入ったのに、啓介とケンカしたクラスメートが連れて行かれたのは職員室だっ
  た。
    こってりとお説教をされていると、他の教師が電話だと言って女性教師を呼んだ。
   啓介たちはしばらく待っていなさいと、その場に残された。
   立たされたまましばらく待っていたが、担任の教師は一向に戻る気配がなかった。
  「……なあ」
   小声で隣に声をかけたが返事はない。
   けれど啓介は気を悪くした風もなく、もう一度声をかけた。
  「なあ、お前は兄弟いんの?」
  「……いるよ」
   怒ったような声で、けれど今度は返事があった。
  「上? 下? 男? 女?」
  「上に男一人だけど、それがどーかしたのかよ」
  「……何て呼んでんだ?」
  「はあ?」
   それまで啓介の方を見向きもしなかったクラスメートが、初めて振り向いた。
  「マジな顔して何かと思ったら───」
  「いーから教えろよっ」
   啓介は真剣だった。その迫力に気押されたのか、クラスメートは怒りを忘れて考え込んだ。
  「……うーん、呼び捨てかなあ」
  「呼び捨て!?」
  「バカ、声がでけーよっ」
   驚いた啓介は場所も考えず大声をあげてしまった。
   何人かの教師がチラリと視線をよこしたが、怒って席を立つ者はいなかった。
   ホッとした二人は、再びひそひそと話し始めた。
  「マジで呼び捨てかよ!?」
  「そんなに驚く事かよ。フツーだろ」
  「フツーなのか……」
   クラスメートはさも当然だとばかりに答えた。
   すると啓介の場合、兄を『涼介』と呼ぶのだろうか。
   ───そんなの、とてもじゃないが呼べそうになかった。
  「だって呼び捨てで、返事してくれんの?」
  「あー、そりゃやっぱ怒るわ。それか無視される」
  「なのに呼び捨てかよ!?」
  「いーんだよ、あんな奴」
   クラスメートの話は、啓介にとっては驚く事ばかりだった。
  「……お前、兄ちゃんと仲悪ィの?」
  「別に悪い訳じゃねーけど……なんかムカつくからケンカばっかだな。お前んちは違うのかよ?」
  「う……」
   啓介は返事に困った。
   覚えている限り、涼介とケンカした事などほとんどなかったからだ。
  「まあ、呼び捨てってのも何だから、時々は『兄貴』って呼んでやってるぜ」
  「アニキ……」
   またも啓介は呆然としてしまった。
   アニキなんて───呼び捨てよりはいいだろうけど、やっぱり呼べそうもなかった。
   考え込む啓介に、クラスメートは呆れたようだった。
  「お前もいつまでも『兄ちゃん』なんて呼んでると、笑われるぞ」
  「誰にだよ!?」
  「皆にだよ」
  「そんなの俺は───」
   誰に笑われようと、啓介は構わなかった。
   しかし次に言われた一言には、さすがに焦ってしまった。
  「それにお前の兄貴も、そのうち皆に笑われんじゃねーの? いつまで『兄ちゃん』なんて呼ばせてるんだっ
  てさ」
  「───……」
   そんな事を話しているうちに、ようやく担任が電話を終えて戻ってきた。
   しかし啓介の心には、クラスメートの言葉がやけに気になって残った。


   中学校の初日は、入学式と明日からの説明だけですぐに終わった。
   啓介たちにはプラスお説教があったが、すぐに職員室から開放されたのは不幸中の幸いだった。
   真っ直ぐ家に帰宅した啓介は昼食をとると、リビングのソファーの上に横になった。
  「……『アニキ』かあ」
   考えるのはクラスメートに言われた一言だ。
   別に人からどう思われようが啓介は気にしないが、涼介に迷惑をかけるのだけは嫌だった。
   それにもしかしたら、涼介にもガキだって思われるかもしれない。
   呼び方を変えた方がいいならそうしてもいいが、けれど啓介にはうまく呼べる自信がなかった。
  「ア……アニキ」
   試しに啓介は練習をしてみた。
  「アニキアニキアーニーキー───……」
   繰り返し声に出していると、何だか何の意味もない言葉に感じられてくる。
   問題はいつから呼べばいいのかという事だ。
   いきなり呼び方を変えたら変に思われるだろう。
   でもわざわざ『アニキ』って呼んでいい? なんて、とてもじゃないが聞けそうもなかった。
   だって恥ずかしいし───何より照れくさい。
  「あーもう、どーすりゃいいんだよっ!!」
  「どうかしたのか?」
  「うわあっ!!」
   啓介は飛び上がって驚いた。
   振り向けばリビングのドアの前に、涼介が立っていた。
  「に、兄ちゃん!」
  「ただいま。……どうかしたのか啓介」
  「え?」
  「何か叫んでいたろ」
   涼介は心配そうに啓介を見ていた。
   啓介は焦ったが、この際だから呼んでみようか───と内心決意した。いつまでも悩んでいても仕方が
  ない。
  「……あ、あのさ」
  「うん?」
  「あ……ア、アニ ───」
  「あ?」
   ───呼べなかった。
   声は出るのだが、涼介を前にすると言葉が出ないのだ。
  「アー、えと……別に、何でもない」
  「本当に?」
  「ホントにホント。ぜーんぜん何もないよ」
  「……ならいいけど」
   涼介はしばし啓介の事をじっと見つめてきたが、啓介は笑顔で答えてみせた。
   すると安心したのか、涼介はカバンを置いてくると言って二階の自室に上がっていった。
   涼介がリビングを去った後、啓介は思いきり脱力した。
   『兄ちゃん』と呼ぶのはもう啓介に染みついている長年の習慣だ。今だって咄嗟にそう呼んでしまった。
   断然その方がしっくりくるのだ。
   でも───。
  「あーもう、どうしよっかなー」
   ソファーの上で一人ジタバタする啓介であった。