CALL・2
ゴールデンウィークを前にして、四月最後の授業がついに終わった。
解放感からか、中学校のほとんどの生徒たちの表情は晴れやかだった。義務教育とはいえ学校よりも、
やはり遊べる休日の方が断然嬉しいものだ。
たとえ僅かな一時、それぞれ割り当てられた箇所の掃除がまだ残っていたとしてもだ。
ざわついているのはいつも通りだが、今日の清掃時間は皆どこかしら浮かれた様子で掃除にあたってい
た。
しかし、中学校全部の生徒がきちんと掃除に勤しんでいる訳ではなかった。
「あーあ……」
啓介は深いため息をつきながら、体育館の二階の片隅に座り込んでいた。
今週、啓介のグループの清掃場所は体育館だった。広い広い体育館は、毎日やっているのに掃除場所
に困る事はない。
啓介以外の生徒たちは今、床のモップかけをしていた。
「あれー、高橋どこ行った?」
「知らないわよ。どっかでサボってるんでしょ!」
クラスメートたちが、姿の見えない啓介を気にしていた。
けれど啓介はそこに出ていくつもりになれなかった。
「……当ったりー」
誰にも聞こえないように小声で返事をすると、そのまま二階の片隅───壁の大きな窓の下から動か
ず、 改めて座りなおした。
「あー……かったりぃ」
クラスメートたちにちょっとは済まないとは思ったが、どうにもこうにも今は掃除などする気になれなかっ
た。
啓介の気力はこのところ、ただ一つの事柄に傾けられていた。
中学校の入学式の日からもうすぐ三週間が経とうとしていた───が、結局未だに涼介の事を『アニキ』
とは呼べずにいた。
毎日毎日、何度も何度も呼ぼうとはしたのだ。喉元まで出かかった事もあった。
けれどいきなりのその不自然さに、どうしても───どーしても呼べなかったのだ。
兄の涼介には変わった様子はなかった。
涼介の顔を見るたびにうろたえる啓介に多少の不自然さを感じ、首を傾げつつも特に追求もしてこない。
一人チャレンジし続けて、けれど目的は達成できないまま、結果として啓介の心だけが疲れ切ってしまっ
た。
「何やってんだかなぁ、俺───」
中年男ではないが『燃え尽き症候群』とはこんな感じなのかなと、ぼんやり考える中学一年生の啓介だっ
た。
うつろな瞳でふと見下ろした窓の外───だったのだが、しかし啓介はそこに思いがけない人の姿を見
つけた。
「……兄ちゃん?」
体育館の裏。啓介のいる窓のはるか下に、涼介の姿があった。
何をしている訳でもなくただそこに立っているだけなのに、学生服を着たその姿はやたらとカッコよかっ
た。
どうしてこんな所にいるんだろうと思ううちに、そこに涼介以外の人間が現れた。
『なんだ、あいつら……』
そのがっしりとした体格といい、初々しいとは言いがたい顔つきといい、どこをどう見ても啓介と同じくこの
春入学したばかりの新入生ではなかった。
二年生か、もしくは涼介と同じ三年───どちらにしろ啓介から見れば上級生だった。
啓介が見守る中、学生服を着込んだ男が二人、涼介の前に立った。
涼介も対峙する上級生も、どちらも口を開こうとはしなかった。向かい合っているのだから用があるのは
間違いないのだろうが、どうにも穏やかではなかった。
涼介は特に慌てる様子などなく、落ちついた態度で向かい合う二人を見つめていた。
対する上級生の男たちは様子が変だった。
一人は困ったような表情で、友人なのだろう隣の男を見つめていた。
もう一人の男───こいつが特に変だった。
赤くなったり青くなったり、落ちつかない様子で、じっと涼介を睨みつけていた。
そのただならぬ雰囲気に、啓介はゴクリと息を呑んだ。
人けのない体育館の裏。
今時まさか───というシチュエーションだが、これはもしかして二人がかりで涼介をボコボコに痛めつ
けるつもりなのだろうか。
啓介があれこれ考えを巡らす間に、ついに上級生の一人が涼介に一歩近づいた。
「……の野郎───」
ヤバイと感じた瞬間───啓介は立て付けの悪い目の前の窓を、力任せに開け放った。
涼介は一人、体育館の裏へとやってきていた。
同級生の男から呼び出されたからだ。友人でも何でもない、ただ名前を知っているだけの者だった。
別に無視してもよかったのだが、そうすると後々面倒な事になり場合があった。今までも度々呼び出され
た事のある涼介は経験からそう判断し、ここへとやって来た。
一方的に降りかかってきた火の粉ではあるが仕方がない。事態を速やかに処理するためだった。
しばらくして男が二人やって来た。
一人は涼介を呼び出した男。もう一人はよくは知らないが、隣の男を気づかう様子からどうやら友人らし
かった。
その様子を、涼介は冷めた瞳で見つめていた。
涼介にはここに自分が呼び出される理由について、二つほど思い当たる事があった。
一つは涼介が気取っているとか目障りだとかで、少し痛い目にあわせてやろうという理由。今までも何度
かそういった理由で呼びだされた事があった。もちろんそんな場合は、相手に痛い目にあって帰ってもらっ
ていたが。
それからもう一つ、……不可解ながらも呼び出される理由があった。
涼介を呼び出した男は緊張した面持ちで、無言のまま涼介を見つめてきた。隣の友人に肩を叩かれ、意
を決したのか一歩近づいてきた。
「……高橋」
涼介を呼ぶ男は、真っ赤な顔をしていた。
どうやら呼び出しの理由は前者ではないらしい───と、涼介が暗澹たる気分で考えたその時、いきな
り頭上でガラリという音がした。
そして怒声が響いた。
「てめーら、何してやがる!!」
いきなり降ってきたその声は、涼介がよく知る声だった。
頭上を見上げると開け放たれた体育館の二階の窓があり、そこから啓介が上半身乗り出してこちらを見
下ろしていた。
「啓介……?」
予想外な弟の登場に涼介は目を瞬かせた。
涼介の視線を追って、対峙していた二人も啓介を見上げた。
「なんだ、あいつ?」
「知らねーよ」
そんな会話が交わされているうちに、啓介は一度窓から引っ込んだ。
あいつ、二階から走って来るのか───そう思った涼介の予想は次の瞬間、見事に裏切られた。
何と啓介は窓枠に足をかけて、窓から全身を現した。体育館の窓は大きい。転落防止のためか窓枠は
腰よりも高い場所にあったが、啓介にためらう様子はなかった。
「啓介、やめろ!!」
啓介の意図を察した涼介が、顔色を変えて制止の声を上げた。
しかし啓介はそれを聞いてはいなかった。
窓から下の地面までおよそ四、五メートル。
あれこれ考える前に───啓介は飛び下りた。
衝撃とともに、涼介と男たちの間に啓介の身体は無事着地した。
「啓介!!」
「いっ……て───!!」
青ざめた涼介が啓介の元に走り寄る。
衝撃に足がビリビリと痺れたが、それを堪えて啓介は立ち上がった。涼介の前に立ち、自ら二人の男た
ちに対峙した。
「てめーら、俺のアニキに何しやがる!!」
まだ小学生らしい幼さをどこか残しながらも、思いっきりすごんで叫んだ。
「落ちつけ、啓介」
別に何かされた訳でも何でもない。気色ばむ啓介を落ちつかせようと、涼介はその肩に手で触れた。
しかし怒鳴られた二人の気持ちはまでは静める事はできなかった。
「何だあこいつ?」
「何だよ、お前。関係ない奴は引っ込んでろ」
「……なんだとぉ!」
正に売り言葉に買い言葉。
涼介が止める間もなく、啓介は目の前の上級生に飛びかかっていった───。
約一時間後の高橋家───。
啓介は涼介の部屋のベッドに座っていた。涼介はその隣にやはり座り、救急箱を傍らに置いて啓介の傷
の手当てをしていた。
「大丈夫だって言ってんのに」
「いいから、おとなしくしてろ」
「うー……」
啓介は腕や頬に、何箇所か擦り傷や痣をつくっていた。
それは涼介を呼び出した男たちとのケンカでつくった傷だった。どれも大した傷ではなかったので、その
まま一緒に家まで帰ってきたのだ。
二階から飛び下りたというのに、幸いにも捻挫等はしていないようで、涼介はそれだけには安堵した。
「これで最後だな」
「いってー!」
「当たり前だろ。……ほら、お終い」
最後に残った頬の擦り傷を消毒し終えて、簡単だが涼介は手当てを終えた。
手際よく救急箱の中身を片づける涼介をぼんやりと見つめながら───啓介は先程の出来事を思い出
していた。
体育館の裏で涼介の同級生と勢いでケンカになった時、さすがに二対一では分が悪かった。
涼介は当初それを止めようとしていたが、啓介が殴られた時点でそれをあっさりと止めた。
そしてあっという間にに二人を叩きのめした。
その鮮やかな手並みに、啓介はしばらく呆然としてしまった。
「強かったなぁ……」
「何が?」
「べ、別に何でもない」
物心ついた時から涼介とケンカなどした事などなく、その強さなど知らなかった。
これからもするつもりもないけれど、絶対に涼介とは争うまいと啓介は思った。
「そーいやあいつら、結局なんの用だったんだ?」
「さあ……。何だったんだろうな」
それを聞くのを邪魔した張本人にあっさりと問われて、涼介は苦笑した。
どんな理由なのか思い当たらなくもなかったが、涼介に叩きのめされた時点で向こうも諦めただろう。
冷たいようだが、元から涼介には関心のない事だった。
それよりも一つ───涼介には気になる事があった。
「そういえば啓介」
「ん?」
「お前……さっき、俺を『兄貴』って呼んでなかったか?」
「!」
涼介に聞かれて、啓介はベッドに突っ伏した。
「おい、大丈夫か啓介」
シーツにへばりついたまま、啓介は真っ赤になって涼介を見た。
「あ、あれはっ……!」
「あれは?」
そう───あれほど呼べなかった呼び名を、啓介はついに口にできたのだ。
ケンカの勢いでというのが少々情けなかったが、とにかく涼介を守ろうと必死だったのだ。
その涼介は静かに啓介を見つめていた。
啓介を見つめる黒い瞳───静か故に逃げ道がなかった。
「───い、いいだろっ。それとも呼んだらまずかったかよ!」
半ば開き直った心持ちで、啓介は叫んだ。
奇妙な沈黙が部屋に流れた。
啓介はもう居たたまれなさで一杯だった。できる事ならこの場から逃げ出したいくらいだった。
「…………いや」
先に沈黙を破ったのは涼介の方だった。
「それもいいかもな」
「え?」
「慣れないからまだちょっとドキッとするけど、『兄貴』って呼ばれるのも……悪くないな」
涼介はそう言うと、にっこりと微笑んだ。
『うわ……!』
涼介に微笑まれて、今度は逆に啓介の方がドキドキしてしまった。
「いいよ。好きなように呼べよ、啓介」
「……『アニキ』?」
「うん」
涼介に応えられて、啓介の顔にも満面の笑みが広がった。
「アニキ!」
嬉しくて啓介は何度も何度も涼介を呼んだ。
アニキは俺が守るんだ───そんな密かな想いを込めて。
〈END〉