DATE with an ANGEL
1



  暦の上ではとうに春が訪れたとはいえ、その暖かさを感じるにはまだ遠い4月の深夜───。
  赤城山の山頂付近に位置する大沼のほとりに、二台の車が止まっていた。
  一台はオレンジ色の車体をしたシルビアS14。そしてもう一台はより鮮やかな車体をしたRX−7───黄色のFDだった。
  S14のドライバーの中村賢太は、もう一人のFDのドライバーの側に子犬のように付き従っていた。
 「啓介さん、走りに行かないんすか?」
 「俺はまだいい。ケンタ、お前は行けよ」
 「でも……」
  FDのドライバー───高橋啓介は煙草を吸いながら、ケンタに煩わしそうな視線を向けた。
  長身の啓介は21歳の、闊達とした青年だった。体つきこそ細身だが充分に逞しく、また若々しい。顔立ちは若者向けの雑誌に載っていても遜色ない、整った容貌をしていた。
  目つきの鋭さと茶髪を立たせた髪形は親しみやすい風ではなかったが、充分に人目をひく容姿だった。
  啓介の側にいるケンタは、啓介と比べると若干年若だった。
  浅黒い肌をし、峠にいるよりも海でサーフボードに乗っている方が似合うといった風の青年だった。
  しかし走り屋として啓介に心酔しているケンタは、啓介の言葉に不満そうだった。それでもケンタの縋るような視線にも構わず、啓介は紫煙をくゆらせた。
 「いいから、好きに走ってこい」
 「……じゃあ、行ってきますけど」
  早く来て下さいねというケンタに曖昧な返事をして、啓介はFDに寄りかかったまま動かなかった。
  ケンタのS14がその場を走り去る。それを啓介は見送りもせず、ぼんやりとそのまま大沼の水面を眺めていた。
 「……ってえ……」
  正確には動く気がしなかった。
  少し前から頭痛がして、いま車に乗ってもとても運転に集中できそうもなかった。もっともこの頭痛は以前から度々あったもので、啓介にとってはとりたてて騒ぐほど珍しいものでもなかった。
  両親は医者であったが、昔から医者嫌いの啓介は誰にも何も言わずに今日まで過ごしてきていた。少し休めばいつも治まる程度の痛みであったので、今更どうする気もなかった。
  深いため息をつきながら煙草をふかす。赤城の暗い夜空に遠く、峠を攻める車たちのスキール音が響いていた。
  大沼のほとりに一人になってどれだけの時間が過ぎたのか───。
  突然、啓介の目の前に広がる大沼に閃光と衝撃が走った。岸辺の地面もまるで地震が起こったように激しく揺れて、啓介はFDに手をつき衝撃をやり過ごした。
 「……な、何だ……?」
  大沼の水面は今も激しく揺らいでいた。啓介のいる岸辺に打ち寄せる波もひどく荒かった。大沼は『沼』とはいってもその広さは湖といってもいい大きさだった。
  それがこれほど荒れているのだから、只事でないことだけはすぐさま啓介にも理解できた。
  目の前の大沼を呆然と眺めていると、視線の先に何かが見えた。
 「……?」
  岸からそう遠く離れてはいない水面の辺りが、ぼんやりと白く光っていた。水蒸気が立ち上っており、何がどうなっているのかはっきりとは見て取れなかった。
  けれどその光の中心に───何かが水面から見え隠れしていた。目を凝らしてよく見ると、それは朧げながら人間のように見えた。
 「……人!?」
  啓介は慌てて着ていた上着を脱ぐと、あとはシャツにジーパンの格好で水の中に足を踏み入れた。
  しかしその一歩だけで、啓介は悲鳴を上げた。
 「うっわ! 冷てぇ───!!」
  4月になって氷こそ溶けたとはいえ、大沼の水は身を切るように冷たかった。水の中へ足を一歩踏み入れただけで、啓介の足はもう既に感覚をそぎ取られつつあった。
  それでも誰かが溺れているなら助けなければと、とにかく啓介は前へ前へと進んでいった。
  いつしか頭の痛みもどこかへ消え失せてしまっていた。 
  水の中を半ば泳ぐようにしてそこまでたどり着く。大沼の水は今や啓介の胸元まで濡らしていた。
  ようやくその場所に近づいてみると、さっきまで見えていた光と水蒸気はすでに消え去っていた。
  そして確かに、誰かが水面にうつ伏せになっていた。
  けれど誰かが溺れていると思って近づいた啓介の考えは、見事なまでに裏切られた。
  誰か───もちろん『人間』だと思っていた相手は、けれどそうではなかった。
 「何、だ……!?」
  白い服を着て大沼の水面に浮かぶそのひとは、確かに人間の形をしていた。
  しかしその背中からはまるで鳥のような、真っ白な羽が生えていた。
 「……作り物か、これ?」
  啓介はそっと、その白い羽に触れてみた。冷たい水に濡れたそれは、けれど微かなぬくもりを啓介の手に伝えてきた。人工物にはない温かさがあった。
  啓介の頭はますます混乱したが、とにかくこのままにはしておけなかった。何より啓介自身が凍えて溺れてしまいそうだった。
  啓介は両手でそのひとの身体を仰向けにすると同時に引き寄せ、岸辺に向かった。抱き上げるにはまだ水位が高かった。しばらく進んでから、啓介は腕の中の身体を両手で抱え上げた。
  そのひとは驚くほど軽かった。水に濡れた上に意識を失った者を運ぶのであるからさぞかし大変だろうと覚悟していたのに、拍子抜けするほどだった。ぐっしょりと濡れた啓介が着ていた服の方がよほど重く感じられた。
 「人間じゃねえみてーだ……」
 しばらくしてようやく岸辺にたどり着き、啓介は抱き上げていたそのひとの身体をできるだけそっと地面に横たえ、自分はその傍らにドサリと座り込んだ。大沼の水の冷たさが啓介の体力を奪っていた。
 その場で一息ついて、すぐに啓介は助けたひとの息を確かめようとした。
 「───!!」
 横たわったままのひとの顔を覗き込む───そこで初めて助け上げたひとの顔を見て、啓介は驚いた。
 今まで21年間生きてきて、こんな綺麗なひとを啓介は見た事がなかった。
 街灯が遠いのではっきりとはわからなかったが、それでも相手が息を呑むほどの美しさを湛えている事だけは夜目にもはっきりとしていた。
 黒い髪も白い肌もしっとりと水に濡れ、雫を零していたが、それさえもがまるでそのひとを飾り立てているかのようであった。
 まだ瞼こそ閉じてはいたが、その容貌の秀逸さが際立っている事は簡単に見てとれた。それほどの美しさが息づいていた。
 「すげえ美人…………っくしょんっ!!」
 しばらくの間、啓介はボーッとそのひとに心奪われていたが、自らのくしゃみにハッと我に返った。
 そのひとはもちろん啓介も、今や頭からつま先まで全身水浸しだった。早くどうにかしないと風邪をひくどころではすまなそうだった。
 慌てて地面に置いたままにしていた、先ほど脱ぎ捨てた上着を拾ってきたが、啓介はそれを自分で着るのではなく、横たわったままのひとの身体にそっとかけた。
 そうしてから再び啓介はそのひとを抱き上げた。抱き上げた身体はやはり軽く、驚きながらも啓介はそれほど苦もなくFDの元まで歩いて行けた。
 FDのシートがびしょ濡れになるのも構わずに、啓介はそのひとを助手席に運び込んだ。
 背中の羽は思ったほど邪魔にはならずにFDの車内に収まってくれて、啓介をホッさせた。
 FDの運転席に乗り込むと、啓介は大慌てでFDのエンジンをかけた。そしてとにかく何か身体を拭う物はないかと後部座席を探し始めた。
 ───と、不意に隣の座席からまぶしい光があふれた。
 慌てて隣に目をやると、助手席に座るひとの身体がぼんやりとした薄い光を纏っていた。
 驚く啓介の見ている前でその光はFDの車内をいっぱいに満たすと、ゆっくりと───消えてしまった。
 FDの車内が再び暗く戻り、しばらくしてようやく啓介は我に返った。
 慌てて室内灯をつけ、恐る恐る啓介は手を伸ばして助手席にいるそのひとに触れてみた。
 すると驚いた事に、そのひとの濡れた身体も髪も服も、いつのまにかすっかり乾いていた。
 白い頬はわずかに血色を取り戻し、黒い髪はまるで今にもさらさらと音を立てそうでさえあった。
 着ている白い服も薄手ではあったが、すっかり乾いてふわふわと柔らかく、暖かそうであった。
 「いったい何なんだ……っくしゅっ!!」
 いまや大沼の冷たい水の洗礼を味わっているのは啓介一人であった。
 訳は分からないし不思議な事ばかりだったが、とにかくこのままでは啓介自身がただでは済まない事は明白であった。
 病院嫌いの啓介は、大慌てでFDを発進させた。
  


作中で名前が出てきませんが、この羽が生えたひとが涼介さまです……(−−;)
なお大沼の水深等、細かい事は気にしないでください。
この話はフィクションです。あくまでフィクションですから〜(^^;)



       小説のページに戻る            インデックスに戻る