B meets B





  高橋啓介は焦っていた。これ以上はないくらい焦っていた。
  向かうは市内の高級ホテル。最寄りの駅で下車した啓介は、
 そこに向かって全力疾走中だ。
  約束の時間は午後六時───しかしホテルまではまだ距離
 があるというのに、今の時刻は五時五十五分。
 「やばい、間に合わねえかも───」
  息を弾ませながら啓介は、とにかくホテルを目指して走っ
 た。
  啓介は今日そこで、母と───そしてその再婚相手と初め
 て会うことになっていた。


  啓介の母が、再婚したい人がいると啓介に切り出したのは
 つい先日───啓介が中学二年になったばかりの春の事だ。
  啓介の父は啓介がまだ生まれる前に交通事故で死んでしまっ
 ていた。
  それから母は女手一つで苦労して啓介を育ててくれたのだ
 が、その母がついに再婚したいと言いだした。
  何と相手は医者───いわゆる玉の輿である。
  とはいえ相手も随分昔に奥さんを亡くして、やはり再婚な
 のだそうだ。
  その話を啓介に切り出した時、母は随分啓介の反応を気に
 していた。けれど啓介は『いいんじゃないの』と即答した。
  何しろ母が苦労する姿をさんざん見て啓介は育ってきたの
 だ。その母が再婚したい相手がいるという。それに反対する
 理由は何もない。
  あっさりと承諾した啓介に母は驚いた顔をしたが、すぐに
 その顔は笑顔に変わった。そして嬉しそうに、相手とその家
 族の事を啓介に話した。
 「あちらにもね、息子さんが一人いるの。啓介のお兄さんに
 なるのかな」
  啓介より二つ年上の、高校生の息子がいると母から聞かさ
 れはしたが、そんな事は啓介はどうでもよかった。
  母さえ幸せになってくれるのならそれでいいと、その時の
 啓介はそう思っていた。
  そう、この時までは───確かにそれだけだったのだ。


  母の再婚相手とその息子───その二人にこれから会うべ
 く、啓介は人の多い大通りをひたすら急いでいた。
  しかし約束の時間を前にしても、啓介は未だ約束のホテル
 に辿り着けずにいた。
 「ちくしょう、それもこれもあいつのせいだ───」
  啓介はぼやきながら、同じクラスの悪友の顔を思い浮かべ
 た。
  授業を終えた啓介は、一度家に戻ってからすぐホテルに直
 行するつもりだった。
  そんな啓介を友人の一人が引き止めた。
  なんでも友人は今日、なんと女に一目惚れしたそうなのだ。
  朝、登校時に駅前を通りかかった時に、改札口を通ってホ
 ームに向かう女子高生に、そりゃあ可愛い子がいたのだそう
 だ。
  その子を一緒に捜してくれと、啓介は放課後、駅前に引っ
 張られていったのだ。
  しかしどれだけ待っても、その一目惚れした彼女の姿は現
 れなかった。約束があるからと啓介は何度も帰ろうとしたの
 だが、たのむから一緒にいてくれと友人にすがりつかれた。
  何時間が経ったのか───日も沈み暗くなってきても、そ
 れでも友人は諦めようとはしなかった。
  時計の針が五時を過ぎたところで堪忍袋の緒が切れた啓介
 は、しつこく食い下がる友人を振り切ってようやくホテルへ
 と向かったのだ。
 「ったく、なにが一目惚れだよ」
  だいたい啓介は一目惚れなど信じられなかった。
  一目姿を見ただけで───相手の事を何も知らないのに、
 どうして好きになれるというのだろうか。本当に好きになれ
 るのだろうか。
  苛立たしい気持ちを抱えながら、ふと啓介は学生服のまま
 で来てしまった事が気になった。
  家には今日のご対面用にと、啓介が頼みもしないのに母が
 用意した一張羅の服があったが、とても戻って着替えている
 時間はなかった。
  朝、狭いアパートの玄関先で何度も啓介に念を押した母の
 声を思い出す。
 「何事も第一印象が大事なんだからね、いい?」
 「別に、いつも通りでいいだろ」
 「ダメよ! ぜったいきちんとしてきてよね!!」
  それではまるで啓介が普段きちんとしてないみたいではな
 いか───失礼なと思ったが、母は一度言いだしたら人の意
 見は聞かないので、はいはいと生返事をして、啓介は家を飛
 び出したのだ。
 「何が第一印象だよ。そういう自分はどうなんだよ───」
  一年ほど前、職場の同僚たちと飲みに出かけた母は、その
 帰り道に乗っていた自転車ごとコケて片腕を骨折───病院
 に担ぎ込まれた。
  そこで治療にあたった医者が、これから啓介が会う再婚相
 手なのだそうだ。
  三十代半ばの啓介の母は、ちょっと……いやかなり気が強
 い、元気な女だ。もちろんかなりの美人ではあるけれど、正
 直いって再婚相手の医者は母のどこが気に入ったのだろうと
 啓介は思っていた。
  まあとにかく縁があったのだろうけれど。
  奇しくも再婚相手も『高橋』という名字だという。
  そんな事を考えながら───ようやく啓介はホテルのラウ
 ンジに駆け込んだ。


  「啓介遅い! 何やってたのよ!」
 「……悪い」
 「おまけに何よその恰好。ちゃんと着替えてこいっていった
 のに、あんた聞いてなかったの?」
 「だから謝ってるだろーが!」
  時刻は六時五分。
  啓介がホテルのラウンジに飛び込むと、その姿を見とがめ
 て母の方から啓介の元に寄ってきた。
  息も絶え絶えに言葉を返す啓介。その様子から啓介がどれ
 だけ急いでここに来たのか分かるだろうに、啓介の母は容赦
 がない。
  しかしいつもなら文句を言う前にまず手が出るはずなのに、
 今日に限ってそれがない。ホテルという場所柄を差し引いて
 も、啓介を責める声はずいぶんと小声だ。
  不気味だ───と啓介が感じていると、母の背後から啓介
 の元に近づいてくる人影があった。
 「……啓介君かい? 初めまして───」
  そう声をかけて二人の元に近づいてきたのは、一人の男性
 だった。
  歳の頃はは四十代前半。啓介より頭二つくらい上背があり、
 身体つきはなかなか逞しい。
  しかし顔つきと言えば逆に穏やかそうで───なかなかの
 色男だった。
  この容姿で医者という職業なら、コブつきとはいえさぞか
 しモテたと思うのだが、何で啓介の母のような性格の粗雑な
 女を選んだのだろうか。
  もちろん啓介自身は、母は度量の広い豪快ないい女だと思っ
 てはいるが。
  しかしそんな日頃の粗雑さをどこかに追いやった母が、照
 れながら再婚相手を啓介に紹介した。
 「啓介、こちらが高橋さんよ」
 「どうも───……母がお世話になってます」
 「啓介!」
  何と言ったらいいかわからずに苦し紛れに思ったまま挨拶
 した啓介に、母は一人慌てた。
  しかし相手は気を悪くした風もなく、穏やかに笑った。
  そんな様子を眺めながら啓介は───母さんって面食いだっ
 たんだと、しみじみと考えていた。


  予約していたホテルの最上階のレストランで、啓介と母親、
 そしてその再婚相手は一緒のテーブルについていた。
  その息子───名前は『涼介』というんだと再婚相手は言っ
 たが、その当人は一向に姿を現さなかった。
  互いのことを話しながらしばらくそのまま待っていたのだ
 が、十五分ほど過ぎたところで彼の父親がやれやれとため息
 をついた。
 「涼介はどうも遅れて来るみたいだから、先に食べていよう」
  それはさすがにまずいんじゃないかと啓介も母も遠慮した
 が、いつもの事だからと啓介の義父になる人は笑った。
  食事は啓介が食べ慣れていないフルコースだったが、ナイ
 フとフォークが使えない訳ではもちろんない。
  折角の御馳走だし、しっかり食べていこうと啓介は中学生
 らしい旺盛な食欲を発揮し、テーブルの下で母に足を踏みつ
 けられてしまった。
  眉を寄せて母を睨んだ啓介だったが、母は啓介の視線を黙
 殺して再婚相手と話していた。
  それをぼんやりと眺めながら、けっこう似合いの二人かも
 しれないと啓介は思った。
  もちろん母が随分とめかし込んで、しおらしくしているせいも
 あるだろうけれど。
  しかし母はどうにも落ちつかないらしい。
  何といっても啓介の向かいの席───空いたままの席の主
 が気になるらしい。
  フルコースのメイン料理の皿が運ばれてきた時、たまりか
 ねた母が口を開いた。
 「あの、涼介君はどうしたんですか?」
 「まったくあいつは何をやっているんだ……。すまないね、
 二人とも」
  その父親は少し眉を寄せながら、けれど慌てた風もなく答
 えた。
 「そんな事はいいんですけど、もしかして何かあったんじゃ
 あ───」
  五分遅れただけの啓介に浴びせたものとはまるっきり逆の
 言葉を母は口にし───啓介は内心で舌を出しながらそれを
 聞いていた。
  そうまで言われて逆に再婚相手は困惑した風を見せ、ぽつ
 りと一言つぶやいた。
 「……またどこかで迷ってるんじゃないだろうな」
 「え?」
 「あ、いや何でもない。ちょっと、失礼するよ」
  母と啓介の視線から逃れるように、再婚相手の彼は席を立っ
 た。
  その姿がレストランの外に完全に消えるのを確認してから、
 啓介はおもむろに口を開いた。
 「母さん、嫌われてるんじゃねーの?」
 「だって高橋さんは涼介君も賛成してくれたって言ってたの
 よ」
 「父親のためを思ってそう返事はしてみたけれど、やっぱり
 どうしても嫌だ───とかさ」
 「ちょっと、やめてよ」
  半分冗談で言った啓介だったが、母は本気で心配している
 ようなのでそれ以上言うのはやめにした。
  しかしその可能性はあながち低くもないかもと啓介は思っ
 ていた。
  逆に啓介のように、あっさりと賛成する方が珍しいのかも
 しれない。
  もちろんそれまで母と二人きりだった家族が、急に四人に
 なるんだと言われて違和感を感じない訳ではない。
  家族が増えるのだといきなり言われても、実感など全然わ
 かない。
  けれど啓介が再婚に賛成した時───母はそれはもう嬉し
 そうだった。口調はそっけなかったが、その瞳には涙がうっ
 すら滲んでいた。
  その笑顔を見ただけで、啓介は他の事はもうどうでもよく
 なってしまったのだ。
  とにかく啓介は母の悲しむ顔だけは見たくはないのだ。そ
 の理由だけで、頼むから早く来てくれと啓介は心の中で叫ん
 でいた。
  そんな啓介の叫びが天に通じたのか───再婚相手が誰か
 を連れて戻ってきた。
 「遅くなってすまなかったね。やっと来たよ。───息子の
 涼介だ」
  啓介とその母親は、慌てて席から立ち上がった。
  そんな二人に向かってすみませんと軽く頭を下げてから、
 息子と紹介された彼は顔を上げた。
 「初めまして、涼介です」
  その顔を一目見た瞬間───啓介は言葉を失ってしまった。
  啓介の義兄になるというその人は、男につかう形容詞とし
 ては不似合いかもしれないが───とにかく『美人』だった。
  容貌はとにかく端正で、文句のつけようがない。
  肌の色は白く、それが漆黒というに相応しい黒髪と相まっ
 て、絶妙の美しさを誇っていた。
  男はもちろんだけれども、女でさえ───こんなに綺麗な
 人にそれまで啓介は会った事がなかった。
  啓介が馬鹿みたいにボーッと涼介を見つめている間に、母
 は緊張してはいたけれども、初めて会う義理の息子に無事に
 挨拶を済ませていた。挨拶を交わした涼介は、今度は啓介と
 向き合った。
  しかし啓介は涼介の姿に、ただただ見惚れるばかりだった。
  そんな様子の啓介を見かねて、啓介の母は息子の腕を肘で
 つついた。小突かれてようやく、啓介は我に返った。
 「は、初めまして……」
  何とか一言だけ挨拶はしたけれども、とにかく啓介の頭の
 中は真っ白で───気のきいたセリフの一つも思いつきはし
 ない。
  しかし頭の中は熱くなるなるばかりで、啓介は本当に居た
 たまれなかった。頭の中だけでなく、頬も熱くなるばかりだっ
 た。
  そんな啓介の様子をどう思ったのか、涼介は啓介の事をひ
 たむきに見つめてきた。その視線はひどく真剣で、より一層
 啓介を慌てさせた。
  涼介はしばらく啓介の事を見つめて───そして、ひどく
 嬉しそうに笑った。
 「初めまして」
  その微笑みは啓介の心を捕らえるには、充分過ぎるものだっ
 た。


  それから遅れてきた涼介を交えて、ようやく四人でテーブ
 ルを囲む事ができた。
  しかし啓介はとにかく緊張してしまって、どうしても顔が
 上げられなかった。
  それでも視線だけ上げて真正面に座る義兄を伺えば───
 何と向こうも啓介を見つめていて、バッチリと視線があって
 しまった。
  いたたまれず目の前の皿からパンをつかみ、それにかじり
 ついた。
  しかしそれまでうまいと感じていた目の前の料理も、もは
 や味などわからなくなっていた。啓介の意識は真正面に座る
 涼介に、ただもう集中してしまった。
  混乱した頭の片隅でチラリと、面食いというのは遺伝する
 ものなのかなと啓介は思った。


  いわゆる───『FALL IN LOVE』。
  この世には一目惚れというものが確かにあると、啓介が初
 めて知った日であった。

 
  


またまたパラレル小説です。
いつもの事ですがどうぞ広い心で読んでやって下さい(^^;)



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