B meets B
10





  「啓介、あんたやっぱりバカだったのねえ」
 「うっせ−な」
 「だってほら、昔っから『夏風邪は馬鹿がひく』って言うじゃ
 ない」
 「…………」
  母親の呆れたようなつぶやきを、啓介はベッドの中で聞い
 ていた。
  啓介は今日、珍しくも熱を出して寝込んでしまった。
  朝からどうも身体がだるいなとは思っていたのだが、大し
 た事はないだろうといつも通りに学校に登校した。
  しかし昼過ぎから体調は急に悪くなり、結局学校を早退す
 る羽目になってしまった。
  そうして夕方になって会社から帰ってきた母親にひどく驚
 かれた。確かに啓介がこんな風に体調を崩すなど、ここ何年
 もなかった事だった。
  考えられる原因は───たった一つ。涼介にベッドを譲っ
 た一昨日、一晩だけとはいえ床で眠った事しか思いつかなかっ
 た。
  その原因となったその人は、母親の隣───やはり啓介の
 枕元に立っている。母親とは正反対に、こちらはひどく心配
 そうに啓介を見つめてきて、そんな様子を啓介はベッドの中
 から見上げていた。
  医者の息子なのにあまり病人に馴染みがないのか、家に帰っ
 てきて啓介が寝込んでいるのを知った時から、涼介はずっと
 啓介の傍を離れなかった。
  涼介にそんなに心配してもらえるのは申し訳なく───し
 かし嬉しく、啓介は緩みそうになる顔をこっそりと掛け布団
 の下に隠した。
 「どうする? せっかくだからこれからでも病院に行く?」
  こちらは大して心配した様子のない母親が、冗談めかして
 啓介に聞いてきた。
 「いーよ。寝てれば治るから」
  医者の義父はこのところ夜勤続きだった。そういえば最近
 あんまり顔を見ていないなと啓介は返事をしながらそう思っ
 た。
 「それにしても困ったわね……。あたしこれから、用事があっ
 て出かけるのよ」
  何でも友人との以前からの約束で、もう出かける時間なの
 だと母親は困った顔をした。
 「ご飯はあと一時間もすれば炊きあがるけど、おかずが何に
 もないのよね。啓介、あんた食欲は? お粥なら食べられる
 ?」
 「少しはあるけど、……どうせならおにぎりとかがいい」
 「時間がないって言ってるでしょ」
  病人の特権である我が儘を啓介も行使しようとしたが、そ
 れは無情にも却下されてしまった。
  仕方ない、と母親は隣に立っていた涼介に顔を向けた。
 「涼介君。悪いんだけど夕食は何か出前頼んですませてくれ
 る?」
 「あ、はい」
 「啓介には私が帰りに何か買ってくるから」
 「えー、何時に帰って来るんだよぉ」
 「出来るだけ早く帰って来るから───待てるわよね?」
 「へいへい……」
  涼介にはこれ以上なく優しく、啓介にはこれ以上なく厳し
 い口調だった。
 「あたしはもう出るけど、涼介君も風邪がうつるかもしれな
 いから、啓介の傍には近寄らないでいてね」
 「えええっ!」
  慌ててベッドから身を起こした啓介の叫びには構わず、母
 親は涼介の両肩に手を置いて一緒にドアへと向かった。
 「まあ涼介君には『夏風邪』はうつらないとは思うけどね。
 さあ、出て出て」
 「え、あ、……はい」
  涼介は戸惑い顔だったが、勢いに押されるままに啓介の部
 屋を出た。
  母親だけがドアを閉める前に啓介を振り返って、手を振っ
 て寄越した。
 「じゃあね、啓介。とにかくゆっくり寝てなさい」
  その台詞が終わるか終わらないかのうちに、部屋のドアは
 バタンと閉められた。
  一人残された啓介は不貞腐れたようにベッドに突っ伏した。
 「……チェッ、つまんねーの」
  せっかく緒美も来る気配がなく、涼介と二人きりになれる
 と思ったのに───。
  悪気のない母親を恨みつつ、啓介は一人おとなしく目を閉
 じた。


  啓介が次に目覚めた時、部屋の中はもう暗かった。
 「うー……いま何時だぁ?」
  カーテンの隙間から垣間見える外はもう真っ暗だった。
  啓介が部屋の明かりをつけて時計を見れば八時を少しまわっ
 ていた。夕方から三時間ほど眠ってしまったようであった。
  熱はまだあるようで身体はだるかったが、ピークは過ぎた
 ようで寝る前よりは楽になっていた。
  ふと喉の渇きを覚えた啓介は、部屋を出ると階下へノロノ
 ロと足を向けた。
  階段を降りてキッチンのドアの前に辿り着く───と同時
 に、啓介の耳に唐突にそれは届いた。それは涼介の叫び声だっ
 た。
 「──────!!」
 「涼介さん!!?
  驚いた啓介が急いでドアを開くと、キッチンの中央のテー
 ブルの前に涼介が眉をひそめて立ち尽くしていた。
 「どうしたんで───……って、何だよその手!!」
  涼介に問いかけようとして、驚きのあまり啓介は叫んでし
 まった。
  涼介は両手の手のひら一面にベットリと、ご飯粒を張りつ
 けていたのだ。それもホカホカと湯気の立った、見るからに
 熱そうなご飯粒だった。
  そんな状態にも関わらず、当の涼介はどこかのんびりとそ
 れを見つめているだけだった。
  しかし啓介の慌てようには驚いたのか両手を背中に隠し、
 気まずそうに啓介の顔を見返してきた。
 「いや……ちょっと」
 「とにかく水で冷やせよ!!」
  後ろ手の涼介の手首を啓介は掴むと、急いで流し台へと引っ
 張っていった。
 「け、啓介?」
 「いいから!」
  蛇口から水を全開で出すと、啓介は涼介の両の手のひらを
 それに突っ込んだ。涼介は顔をしかめたが、それでも逆らわ
 ずに啓介のするがままに任せていた。
  ───しかしずっとそのままでいるうちに、さすがの涼介
 も居たたまれなさを感じてきたらしかった。
 「……もう、大丈夫だから」
 「ダメだ! とにかく俺がいいって言うまでこうしてんの!」
 「───……」
  涼介は手を引こうとしたが、啓介はそれを母親譲りの強情
 さで却下した。
  水道料金の請求が心配になるぐらいの長い時間そうした後、
 啓介はようやく涼介の手首を離して水を止めた。
  涼介は自らの手のひらを見つめていたが、その表情は啓介
 が不思議に思うくらい穏やかだった。
 「痛む?」
 「いや……大丈夫みたいだ」
 「ホントに?」
  涼介は平気だと答えたが啓介はどうにも不安で、もう一度
 涼介の手首を掴むと手にしたそれをジッと見つめた。
  幸いその手のひらは、直ぐに流水でたっぷりと冷やしたの
 がやはり良かったのか、ほんのりと赤みを残すくらいで火傷
 には至っていなかった。
  白いその手が傷つかなかった事に、啓介は心底ホッとした。
  それを確認してから、ようやく涼介の手を離した。
 「一体なにやってたんだよ……」
  驚きのあまり口調もいつもとは違ってしまっている事にも、
 その時の啓介は気づかなかった。
  涼介はそんな啓介の態度に気を悪くする風はなかった。
  しかし啓介の問いにすぐには答えずに、仕方なく再度啓介
 は涼介に問いかけた。
  そうしてようやく涼介は、その重い口を開いた。
 「…………りを作ろうと思って」
 「え? 何を作ろうとしたって?」
  涼介はやけに小声だった。そのためよく聞き取れなかった
 啓介は、思わず聞き返した。
  その啓介に、今度は涼介は一言だけつぶやいた。
 「……おにぎり」
 「───え」
  涼介の言葉に啓介は目を見張った。
  言われて初めてキッチンのテーブルの上を見れば、そこに
 はお皿とご飯茶碗としゃもじと何枚かの海苔───そしてご
 飯の固まりやご飯粒があちこちに散らばっていた。
  確かにおにぎりを握ろうとしたらしかった。
 「……って、涼介さんの夕飯? 出前は?」
  食べ物にこだわりのない涼介にしては珍しい───と啓介
 はまず思った。
 「別に食べたくなかったから、頼んでない」
 「じゃあこれは───?」
  訳がわからない啓介に、涼介は逆に驚いた顔で聞いてきた。
 「だって啓介、食べたかったんだろう?」
 「え───……」
  言葉を失った啓介が涼介を見れば、涼介もただ啓介を見つ
 めていた。
  その瞳を見つめるうちに、啓介はようやく事の次第が飲み
 込めた。
 「もしかして……俺のため?」
  恐る恐るつぶやいた啓介の声に、涼介はコクンと首を縦に
 振った。
  その事実に、啓介は天にも昇る心地だった。
  まさか涼介が───あの涼介が、啓介のためにおにぎりを
 作ってくれようとするなどは思いも寄らなかったのだ。嬉し
 くて嬉しくて仕方がなかった。
  有頂天になった啓介であったが、それでもまだ疑問は残っ
 ていた。
 「でも何であんな事に……。手のひらに水はつけたんだろ?」
 「……水?」
  涼介の返事に、啓介はまたも驚いた。
 「だってそうしなきゃご飯粒が手にくっつくだろ!」
 「ああ、そうなのか……道理で。そうか、そういう風につく
 るのか」
  感嘆の声を上げた涼介に、ちょっと待てと啓介は慌てた。
 「…………もしかして涼介さん、今までおにぎりつくった事
 は───」
 「今日が初めてだ」
  涼介はあっさりとその事実を口にした。
  しかし啓介は目まいをおこした。下がりつつある熱がまた
 上がったような気がした。
  やっぱり───という言葉だけは、辛うじて飲み込む事に
 成功した。


  結局啓介が二人分のおにぎりを握り、二人で遅い夕食を一
 緒にとった。
  しかし疲れ果てた啓介は再びベッドへと直行した。母親の
 言う通り、とにかく寝て治すしかないと思った。
  その啓介と一緒に───なぜか涼介までが啓介の部屋へと
 やってきた。
 「涼介さん?」
 「俺もここにいていいか?」
 「でも、風邪がうつるかもしれないし」
 「大丈夫だよ」
  笑顔とともにそう言われては、啓介に拒否する事などでき
 なかった。
  そうして啓介は再びベッドに横になり、涼介はその枕元の
 床に座り込んだ。しかし涼介にそう傍に居られては、啓介も
 ゆっくり休む事などできなかった。
  気まずいとも違う、しかし穏やかとも言い難い妙な沈黙が
 しばらく続いた。
  その沈黙を破ったのは、意外にも涼介だった。
 「……そうだ。何か本を読もうか?」
 「本?」
  唐突な涼介の提案に、啓介は目を丸くした。
 「ずっと寝てばっかりじゃ退屈じゃないか?」
 「え……まあ、そうですね……」
  啓介の返事に、涼介は何故かひどく嬉しそうな顔をした。
 「何の本がいい?」
 「何でも───その辺にあるのを適当でいいです」
  はっきり言って啓介には本などどうでもよかった。けれど
 せっかくの涼介の申し出を断る気はもちろんなかった。
  涼介はその言葉を聞き、すぐに啓介の部屋の本棚の前に立っ
 た。
  啓介の本棚はほとんどが車の雑誌かマンガばかりで、真面
 目な本など数える程しかなかった。
  でも涼介が読み聞かせてくれるのなら啓介は何でもよかっ
 たのだ。少なくともこの時まではそう思っていた。
  しばらくして涼介は一冊の本を手にして啓介の枕元へと戻っ
 てきた。
 「じゃあ、読むぞ」
 「はあ」
  ペラリと本をめくる軽やかな音がして、しばらく啓介はお
 となしく待っていた。
  しかし涼介の口から出た言葉は、啓介をそのまま落ちつか
 せてくれるような内容ではなかった。
 「……秘密の残業時間。OLの熱く濡れた夜」
 「!?」
 「OLのR子は今日も一人、定時後の会社へと残っていた。
 そこへR子の待ち望んでいた相手がやって来た。その足音を
 耳にしただけで、R子は自らの花心が蜜に───」
 「なに読んでんですかっ!?」
  慌てた啓介はベッドから飛び起きると、涼介の手からその
 本をひったくった。
  涼介の声は淡々とした澱みないもので、見れば涼介はきょ
 とんとした顔をしていた。
 「何って……本棚にあった本を適当に」
 「──────」
  確かに見覚えのある表紙のこの本は、啓介の本棚にあった
 ものだ。
  しかし何というか───それは、いわゆるエロ雑誌だった。
  中に出てくる女の一人が気に入っていたものだった。
  もちろんそっくりではないのだが、肌の白さと伏し目がち
 の視線がちょっとだけ───涼介に似ていたのだ。
  でも啓介はしっかりと本棚に並べてある本の奥に隠し置い
 ていたのに、どうしてよりによってそれを涼介は見つけ出し
 てしまったのか。
  取り上げた本を布団の中に押し込んだ啓介であったが、ど
 うにも居たたまれなかった。だってまたも知られたくない事
 を涼介に知られてしまったのだ。
  けれど涼介はそんな啓介の心中には気づかないのか、その
 本を取り戻そうとした。
 「りょ、涼介さんっ?」
 「いいから啓介はゆっくり寝て風邪を治せよ。……続き読む
 から」
  とんでもない涼介の言葉に、啓介はブンブンと首を横に振っ
 た。
 「いや、もう結構ですっ!!」
 「どうしてだ?」
 「どうしてって───」
  見れば涼介はひどく悲しそうな顔をしていて、啓介は心底
 から困り果てた。
  風邪とは別の熱と、そして今度は頭痛までもが啓介をひど
 く悩ませた。

 
  


おにぎりの一件は私の実話ネタです。
10歳の時、水もつけずに炊きたてご飯をギュウッと……!!
とんでもないメにあいました〜!!(><)
ちなみにおにぎりは大好物ですが、あれから一度もつくった事はありません〜(^^;)





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