B meets B





   日曜日の昼下がり。啓介はとある家の前に一人立っていた。
  家の周りは高い塀にぐるっと囲まれている。背伸びしてそ
 の中を伺えば、広い庭の向こうに洋式建築の大きな家が見え
 た。
  その玄関先へと続く、目の前の門には堂々と『高橋』という表
 札が掲げられていた。
 「すっげー家……」
  感嘆のため息とともに啓介はつぶやいた。
  そこは母の再婚相手とその息子───涼介の住む家だった。
  入籍を目前に控え、四人で新しい生活を始めるべく一緒に
 住むという事になった。
  どちらがどちらの家に引っ越すかは、全員一致ですぐに決
 まった。啓介と母親の住む狭いアパートと、涼介とその父親
 の住む広い家では、どちらに引っ越すのか迷いようがなかっ
 た。二人でも狭いアパートにこれ以上人が増えるのは物理的
 に不可能だ。
  しかしいざ引っ越しの手筈を決めるために、涼介の家に行
 く段になって問題が起きた。
  医者である義父になる人は仕事の都合がつかず、母も同僚
 の送別会があるとかで、お互い都合のいい日がなかったのだ。
  どうするのかと思ったが、その問題は啓介の母の一言であっ
 さりと解決した。
 「涼介君と啓介で大体の事は決めておいて」
  そんないい加減なと思ったが、一度は相手の家に訪問して
 おきたいというような繊細な神経は啓介の母にはないらしい。
 母の再婚相手もそれでOKを出した。
  それでいいのかと啓介が聞けば、母の返事はどうせこれか
 らずっと住むことになるんだからというものだった。
  そんなこんなで啓介は涼介の家まで一人やって来ていた。
  チャイムを鳴らす前に、啓介は深呼吸を一つした。けれど
 胸のドキドキは一向に静まらない。
  高鳴る鼓動を抱え込んだまま、啓介はそれでも覚悟を決め
 てチャイムを押した。
  涼介が一人、啓介を待っていてくれる筈であった。


  「いらっしゃい。待ってたよ」
  出迎えた涼介は、にっこりと微笑んで啓介を家の中へと招
 き入れた。
 「お……お邪魔します」
  啓介は久しぶりに会う涼介の顔を見た瞬間、我を忘れて彼
 に見惚れてしまった。
 『……やっぱすっげー綺麗な人だなあ』
  先日会った時の涼介はスーツ姿だった。けれど今日は自宅
 という場所のせいか、ストライプのシャツに紺色のパンツルッ
 クと、幾分ラフな恰好をしていた。
  それは普段着なのだろうけど、なぜか生活感といったもの
 がまったく感じられず、何だか啓介は自分の普段着姿が恥ず
 かしくなってしまった。
  実は前の晩に何を着ていこうかと散々悩んだ啓介であった
 のだが、変にかしこまって行くのもおかしいかと思い、普段
 通りのパーカーにジーンズを着てきたのだ。
  しかし涼介に会って、もうちょっといい恰好をしてくれば
 よかったかなと密かに後悔した。
  涼介はそんな啓介の物思いに気づくことなく、啓介を家の
 奥へと促した。
 「じゃあ、まず家の中を見るか?」
 「あっ……ハイ」
  無意識のうちに涼介を見つめてしまっていて、啓介は慌て
 て返事をした。
  そうして涼介に案内されたそこは、家というよりも邸宅と
 いった方がいいような広い家だった。
  最初に啓介が驚いたのは廊下の長さだった。家が広いのだ
 からそれは当然かもしれないが、移動に一分もかからない狭
 いアパートに住む啓介にとってはカルチャーショックだった。
  おまけに置かれている調度品のそれぞれがまた豪華だった。
  値段の程はわからなかったが、どう見ても高そうな壺やら
 絵画やら───そういったものが家のあちこちに飾られてい
 た。
  例えばリビングひとつとっても、四、五人は楽に座れるソ
 ファーやら何やらがドンと置かれており、それでも部屋を狭
 いと感じない程なのだ。
 『こりゃ家具全部持ってきても、全然余裕だな……』
  引っ越す時に不要なものはどうにかして片づけてこようと
 啓介は思っていたが、それさえも無駄になりそうな広さの家
 だった。
  一階を一通り案内され、啓介は涼介に連れられて二階へと
 上がった。
  そこはどちらかというとプライベートな空間で、啓介はこ
 れからここに住む事になるというのに、足を踏み入れてもい
 いのかという気持ちになった。
  そうしてまず通されたのは涼介の部屋だった。
 「ここが、俺の部屋」
  涼介の部屋は───やはり広かった。この部屋一つをとっ
 ても、もしかしたら啓介のアパートと互角の広さはあるので
 はないかと思われた。
  しかし他の部屋の豪華さに比べて、涼介の部屋はシンプル
 なものだった。
  机に椅子、そしてパソコン。あとはベッドと本棚があるく
 らいで、部屋が広いだけに逆に寂しいとまで感じる部屋だっ
 た。
  けれどそんな啓介の印象は、不意につぶやいた涼介の一言
 にかき消された。
 「……部屋は俺の隣がいいかと思ってるんだけど、どうかな
 ?」
 「あ───構いません、けど……」
  咄嗟にそう返事はしたけれど、啓介の胸はドキリと高鳴っ
 た。
  この人と同じ家で、隣の部屋で暮らす───その現実を改
 めて認識する。
  嬉しいやら困ったやら、とにかく啓介は複雑な気分だった。
  初めて訪れた家にも緊張していたけれど、何より啓介を落
 ち着かなくさせたのは隣にいる涼介の存在だった。
  初めて会った日から二週間───その間も母は再婚相手と
 連絡をとってはいたようだったが、啓介が涼介に会うのは今
 日でようやく二度目だった。
  だから涼介と一緒に過ごすのに、まだ全然慣れていないの
 だ。
  でもそれは苦痛なのではなく、むしろその逆で───だっ
 て好きな人と一緒にいて嫌になる訳がないではないか。一目
 惚れの魔法は未だ強力に啓介にかかっていた。
  もちろん啓介には男を好きになる趣味はない。好きになる
 のならやっぱり可愛い女の子や、色っぽいお姉さんがいいと
 思う。今でも思っている。
  それでもどんな女より、今の啓介は義理の兄に惹かれてし
 まうのだ。
  初めて会ってから今日まで、涼介の夢を何度もみた。その
 度にマジかよ───と、頭を抱え込んだが、それでもやっぱ
 り啓介の気持ちは変わらなかった。
  そっと隣にいる涼介を伺い見る。
  その白く整った細面をこっそり見つめて、啓介は自分の頬
 が熱くなっていくのがわかった。
 『なんでこんなに好みなんだよ……』
  この人と兄弟になるなんて信じられない。
  しかしその義兄に惚れている自分というものが、啓介はそ
 れ以上に信じられなかった。


  一通り家中を案内されてから、啓介は涼介に促されてリビ
 ングのソファーに座った。
 「何か飲むか?」
 「あ……じゃあコーヒー、もらえますか」
  啓介の言葉に、一瞬だが涼介は考え込んでからつぶやいた。
 「インスタントならあったと思うけど……それでもいいか?」
 「うちもいつもそうです」
 「じゃ、ちょっと待っててくれ」
  涼介の姿がキッチンの奥に消えて、啓介は座っているソファ
 ーにぐったりと身体を預けた。
 「すっげー緊張してるぜ、俺……」
  苦々しく啓介はつぶやいた。
  涼介と一緒にいると、とにかく啓介の心臓は勝手にドキド
 キ高鳴り通しだった。
  今からこんなで、一緒に暮らしはじめたらどうなってしま
 うのか───気が重くなるほどだった。
  そんな事を悶々と考えているうちに、涼介がリビングに戻っ
 てきた。
  どこかぎこちない手つきで啓介の前のテーブルにコーヒー
 と、砂糖壺とミルクカップを置いた。そして啓介の相向かい
 に自分のカップを置いて、その席に涼介は座った。
  涼介と正面から向き合う事になって、啓介は思わず下を向
 いてしまった。
 『か、顔が見れねえ……』
  もちろん啓介としてはじっくりゆっくり涼介の顔を見つめ
 たいのだが、そうしたくとも自然と身体がうつむいてしまう
 のだ。
  仕方なくうつむいた視線の先にある涼介の手元を見つめて、
 啓介はふと違和感に気がついた。
  啓介に出したのと同じカップだったが、その中身はコーヒ
 ーではなかった。白く、そしてほんのりと湯気が立っている
 様子から、どうやらホットミルクらしい。
 「あれ……。涼介さんはコーヒーじゃないんですか?」
 「俺はコーヒーはあんまり飲まないんだ」
  それでは啓介のためにわざわざいれてくれたのか。啓介は
 思いっきり恐縮した。
 「何かすいません。涼介さん飲まないのに」
 「オーバーだな。インスタントだぞ、それ」
  それでも啓介は嬉しかった。
  インスタントでも何でも、涼介が啓介のためだけにわざわ
 ざコーヒーをいれてくれた───それだけでもう、天にも上
 る気持ちだった。
  砂糖を一匙と少しのミルクをコーヒーの中に入れて、啓介
 はスプーンでそれをくるくると軽くかき混ぜた。
  そうしてから啓介はカップを持ち上げた。
 「いただきます、涼介さん」
 「……それ、やめないか」
  啓介が今まさにコーヒーを飲もうとした瞬間───涼介が
 いきなりつぶやいた。                 │
  その一言に、訳がわからないまま啓介は手を止めた。思わ
 ず手にしたコーヒーをジッと見つめた。
  涼介は未だにカップを手に取ろうともしていない。もしか
 したら啓介は図々しい奴と思われてしまったのだろうか。
  思いがけない緊張から啓介は身体を固くした。
 「……コーヒー、飲んじゃダメですか?」
 「それは構わないけど」
 「涼介さん……」
  ちょっとだけホッとして、啓介は肩の力を抜いた。
  しかし一体なにをやめればいいのやらどうしても思いつか
 ずに、啓介は仕方なく涼介に聞きなおした。
 「じゃあ、何をやめるんですか?」
 「その『涼介さん』って呼び方」
  涼介の言葉に啓介は顔を上げた。そうして涼介の思いもか
 けぬほど真剣な瞳に見つめられ、驚いた。そして視線を外せ
 なくなってしまった。
  啓介を見つめたまま、涼介は口を開いた。
 「俺たちは兄弟になるんだし、そんな他人行儀な呼び方でな
 くてもいいんじゃないか」
  涼介の言葉は啓介には予想もしない事だった。別によそよ
 そしく振るまっているつもりはなかったが、涼介にそんな風
 に受け取られているとは夢にも思っていなかった。
 「じゃあ、何て呼べば───」
 「……例えば、『兄貴』とか『兄さん』とか、『涼兄』とか───」
 「ア、ニキ……」
  啓介は呆然とつぶやいた。涼介を『アニキ』と呼ぶなんて、
 ものすごい違和感だった。
  もちろん呼び慣れないという事もある。けれど涼介の事を
 兄弟とか家族とかいう目だけで見ている訳ではない啓介は、
 とてもそんな風に呼べそうにはなかった。
  そんな啓介の想いを知る由もなく、涼介は啓介をひたすら
 見つめてきて啓介を慌てさせた。
  初めて会った時もそうだった。
  もしかしたら涼介の癖なのか───涼介は啓介の事をやけ
 に真摯な瞳で見つめてくる。今もそうだった。
  ひたすら涼介に見つめられて、啓介は内心でパニックを起
 こしていた。
  涼介はただただ、啓介の言葉を待っていた。
  パニックを起こしたままの啓介は何か言わねばと、とにか
 く口を開いた。
 「えと……。じゃ……そ、そのうちに」
  しどろもどろな啓介の返事に、涼介はひどく寂しそうな顔
 をした。
  逆に涼介がそれほどまでに残念そうな顔をするのに、啓介
 は驚いた。そんなに酷い言葉だったかと、啓介は思わず自分
 の言葉を胸のうちで繰り返してみた。
  それでもどうしても涼介の落胆の理由がよくわからない。
  困惑の表情を浮かべる啓介をどう思ったのか、そのうちに
 涼介もすまなそうな顔をした。
  とても残念そうに視線を逸らし、静かな声で聞いてくる。
 「じゃあ俺が……『啓介』って呼ぶのも、ダメか?」
 「それは全然構いませんけど」
  今度の涼介の申し出は、啓介にとって何ともない事だった。
 だからためらいなく涼介に返事をすることができた。
  けれど涼介にとってはけっこうな重大事項だったらしく、
 啓介の言葉に弾かれたように顔を戻した。
 「本当に?」
  啓介がしっかりと頷くと、涼介は───嬉しそうに微笑ん
 だ。そりゃもう花が咲いたような笑みだった。
  惚れた相手の満面の微笑みにあてられて、啓介はまたも自
 分の心臓が高鳴るのを感じた。
  とてもそのまま見ていられなくて、啓介は放ってあったコ
 ーヒーを一口飲んだ。
  いや、飲もうとした───が。
 「───!!」
  そのコーヒーは……物凄い味だった。この世のものとは思
 えない不味さだった。
  吹き出しそうになるのをなんとか堪えて、啓介はそれをゴ
 クリと飲み込んだ。そうしたのは真正面に涼介が座っていた
 からだった。
  涼介に気づかれないように砂糖壺をそっと確認する。
  案の定、涼介が持ってきたその中身は砂糖ではなく───
 塩だった。
  何かの冗談かと涼介の顔を伺ったが、涼介はしてやったり
 という顔もどうかしたのかという顔もしていない。
  ただただ嬉しそうな顔をしたまま、ホットミルクを飲んで
 いる。そこには何の邪気も感じられなかった。
  もう一口、塩入りコーヒーを飲んでみる。それはやっぱり
 どうしようもない、とてもそのまま飲み続けられるような生
 半可な味ではなかった。
 「あ、あの、涼介さん───……」
  啓介は涼介を呼んだ。新しいコーヒーと砂糖を持ってきて
 くれと頼むつもりだった。
  けれど───。
 「何だ? 啓介」
  にっこりと───これ以上なく嬉しそうに、涼介は義弟の
 名前を口にした。
  それを見た啓介に、言うべき言葉はもう他にはなかった。
 「あ…………おいしいです、このコーヒー」


  その後おかわりを進められて、啓介は塩入りコーヒーを三
 杯も飲む羽目なった。
  それでも涼介の笑顔は、それを差し引いて余りある幸せを
 啓介に与えた。
  いったいどんな新生活になるのか、引っ越しの日はもう目
 前に迫っていた───。

 
  


塩入りコーヒー。私は過去に飲んだ事がありますが、あれはマズいです!
激マズです!! 啓介の気持ちを知りたい方、……にもおすすめできない味です(^^;)



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