B meets B
23






  年の瀬も押し迫ったその日、史浩は近所の幼なじみの家に
 呼ばれてやって来た。
  いつもと同じく通された涼介の部屋で、涼介と啓介と向き
 あった。けれどいつもと違い、部屋の中はもちろん家中が重
 苦しい雰囲気に包まれていた。
  その違和感の最たるものは、啓介の頭にグルグルと巻かれ
 た白い包帯だった。
 「それで、何針縫ったんだって?」
 「四針……」
  包帯に目をやった史浩が聞けば、啓介は苦々しく答えた。
 「この年末に、お前もまた災難だな」
  啓介が怪我をしたのは昨日の事。家を出ていく母親を引き
 止めようとして、うっかり勝手口の鴨居に激突してしまった
 のだ。
  事の顛末を聞いた史浩は、半ば同情し、また半ば呆れなが
 らつぶやいた。
 「親父さんの病院に行ったのか?」
 「いや。とりあえずタクシーで近所の病院に飛び込んだ」
 「そうか。ま、親父さんの病院、ちょっと離れているしな」
  涼介の返事に史浩も納得した。
 「でも四針縫っただけなら、治療はすぐに終わったんだろ?」
 「それが……」
  史浩の質問に、涼介は形のよいその眉をひそめた。
 「何か問題あったのか?」
 「治療が終わったあと啓介に聞いてわかったんだが、どうや
 らその病院の医者は午後は往診に出かけるらしくてな……」
  病院に行ったはいいが看護士しかいなかったのである。
 「おいおい……。それでどうしたんだ?」
 「血がダラダラ流れてるし、向こうも放っておけなかったん
 だろうな。ちょっと待たされた後、治療してくれたよ」
  当事者である啓介がちょっと怒ったように答えた。
 「治療って、医者はいなかったんだろ?」
 「だから、看護士がやった」
 「え! それってまずいんじゃないのか」
 「よくはない……筈なんだがな。ともかく治療はやってくれ
 たそうだ」
  驚く史浩に、啓介と涼介それぞれが答えた。
  治療───つまり傷口を縫い合わせたのである。
  涼介に付き添われて啓介が病院を訪れた時、すぐに診察室
 に通されたはいいが誰も啓介の前には現れなかった。変だな
 と思って啓介が部屋の奥をこっそり伺えば、三人の看護士が
 ひそひそと話をしていた。
  そしてしばらくして、看護士の一人が啓介の傷口を縫い始
 めたのだそうだ。
 「いいのかよ……」
  将来医者を志している史浩は、その現実にうなだれた。
 「啓介、本当に傷口は大丈夫か?」
 「自分じゃわかんねーよ」
  憮然として啓介は答えた。看護士にされたからという訳で
 はないが、ちょっと考えさせられる事があったからだ。
  傷口をチクチクと縫い合わされたのはいいが、縫合に使わ
 れた糸をグイグイ引っ張られる度に、啓介はまるで自分が雑
 巾になった気分だった。
  もしもこの先、雑巾を縫う機会があったら、ぜったい心を
 こめて優しく縫おうと決意した啓介であった。
 「まあ、今日行った時は医者がいて、傷口見てくれたけど消
 毒だけで済んだから、大丈夫なんじゃねーの」
  事も無げに啓介は言った。
  薬を処方されて帰ってきたのだが、今のところ熱も上がっ
 ていない。包帯の下には痺れるような感覚が残っていたが、
 そう意識するほどでもなかった。
  どちらかといえば怪我をした啓介本人よりも、未だに涼介
 の方が顔色が悪かった。
  啓介の口から大丈夫という言葉を聞いて、史浩も少しだけ
 安心した。そこでようやく、高橋家に今日呼ばれた本題を話
 しだした。
 「───で、お袋さんはまだ帰ってこないのか?」
 「……ああ」
  啓介の返事は短かったが、内容は重かった。
  母親がこの家を飛び出したのも昨日の出来事。その勢いは
 只事ではなく、離婚するとの捨て台詞を残した上での家出だっ
 た。
 「で、親父さんは?」
 「わかんねえ」
 「わからない?」
  あくまで簡潔な啓介の言葉を涼介が継いだ。
 「父さんとも連絡がつかないんだ」
 「はあ……?」
  昨日、啓介の怪我の治療が終わった時、既に日はとっぷり
 と暮れていた。
  すっかり遅くなってしまったが啓介の怪我の事を伝えよう
 としたのだが、てっきりいると思っていた父親は既に病院を
 後にしていた。
  聞けば受け持ちの患者の容体が安定したらしい。
  しかし二人が家に戻ってもその姿はなく───父も母もい
 ないまま、結局一晩経ってしまった。
 「しかし、離婚ってのも穏やかじゃないな……」
 「…………」
 「…………」
  史浩の一言に、涼介も啓介も共に押し黙ってしまった。そ
 れでも史浩は諦めなかった。
 「二人の行き先に心当たりはないのか?」
 「母さんの友達の何人かに電話してみたけど、来てないって
 さ」
  肩を竦めて、啓介はあっさりと答えた。
 「涼介、親父さんはどうなんだ?」
 「病院にいないとなるとわからない」
 「おいおい……。住所録とか何か、親父さんは持っていない
 のか?」
 「どうかな───」
  そう言われて初めて思いついたのか、涼介は腰を上げた。
 「父さんの部屋で、ちょっと探してくる」
  涼介はそう言うと、父親の部屋へ向かった。
  涼介の部屋には啓介と史浩の二人が残された。
 「まったく、あいつも相変わらずだな……」
 「何が?」
 「親子だってのに、いまいちコミュニケーション不足だって
 事さ」
  涼介が出ていったドアを見つめながら、ため息とともに答
 えた史浩であった。
  しかし気を取り直したのか、すぐに啓介に向き直った。
 「で、どうなんだよ。啓介」
 「どうって何が?」
 「お前のお袋さんだよ。ホントに離婚する気なのか?」
 「うーん……」
  啓介は困ってしまった。
  確かに母親の性格は啓介が一番よく知っている。
  しかし考えれば考えるほど、事態は暗かった。
 「……母さん、言いだしたらきかないからなあ」
 「おい、どうするんだよ」
 「どうしようもねーだろ───」
  啓介こそどうしたらいいのか、教えてほしいぐらいだった。
  結婚したのは親たちである。だから離婚するのも親たちだ。
  子供である涼介と啓介には、反対を唱えようとも決定権は
 ない。
  結果、どうなるのか。
  ───涼介と啓介は他人に戻るのだ。
  義理とはいえ兄弟として過ごしたのも一緒に暮らしたのも、
 すべては両親の再婚があった上での事だった。
  啓介に何ができる訳もない。
  考えれば考えるほど頭は混乱するばかりで、啓介は包帯で
 グルグル巻きの頭を抱え込んでしまった。
 「あー……。もうそれしかないのかもなあ……」
 「おい! 滅多な事いうなよ」
  力なく、しかしとんでもない事をつぶやく啓介に、史浩の
 方が声を荒らげてしまった。
 「そんな事言ってて、本当にお袋さんたちが離婚したらどう
 するんだよ」
 「だからそれもしょーがねえのかもって言ってるんだよ」
  啓介の態度は本気というより、どこか拗ねたようであった。
  だから史浩も敢えて止めなかった。
  そんな史浩に対する気の緩みからか、啓介は有ろう事かと
 んでもない事を口にした。
 「……それに俺は別に、涼介さんの弟になりたかった訳じゃ
 ねえもん」
 「───啓介!!」
  史浩が叫んだが、啓介の言葉は消しようがなかった。
  啓介の背後を凝視したままの史浩に、啓介はまさかと思っ
 た。
  しかし嫌な予感というものは当たるもので、啓介が慌てて
 振り返れば───そこにはこの部屋の主の姿があった。
 「りょ……うすけ、さん───……」
  啓介が途切れ途切れに涼介の名前を呼んだ。
  しかし涼介は答えなかった。啓介を見つめたまま、ただ立
 ち尽くしていた。
  さすがの史浩もこの場をどうフォローすればいいのか、す
 ぐには動けなかった。
  と、意外にも最初に動いたのは涼介だった。
  くるりと踵を返すと、何も言わずに部屋から飛び出した。
 「涼介さん!」
  しかし呼んでも涼介の足は止まらない。
  啓介も慌てて部屋を飛び出した。
  涼介は階段を下りると一階のリビングへと駆け込み、啓介
 はそれを追った。
  息を荒らげた啓介がリビングに辿り着くと、涼介はソファ
 ーに座りもせず、やはり立ち尽くしていた。
 「……涼介さん」
  啓介はその背中に声をかけたが、しかし涼介は振り返らず、
 啓介に背を向けたままだった。
  それに狼狽した啓介であったが、それでも何とか涼介の誤
 解だけは解かなければならなかった。
  別に啓介は涼介の弟になったのが嫌なわけではないのだ。
  ただもっと別の───涼介にとって、もっと大切な存在に
 なりたかったのだ。
 「涼介さん。あの、さっきのは───」
 「ごめんな」
 「え?」
  謝ろうとした矢先に、逆に涼介から謝られて啓介は驚いた。
 「……啓介が嫌になるのも当然だ」
  啓介に背中を向けたままの、俯きがちな涼介の声は小さな
 ものだった。
 「世話ばっかりかけて、兄貴らしい事なんか何もしていない
 し……啓介がそう思うのも当然だよ」
 「違う! 涼介さん、俺は───」
 「でも、俺は嬉しかったんだ」
  涼介は振り向いた。
  啓介を見つめて微笑んだ。それは今までに見たことのない、
 ひどく悲しげな笑みだった。
 「啓介と兄弟になれて……嬉しかったんだ」
  それを目にして、啓介は言葉を失ってしまった。
  嬉しいと思うと同時に、それに落胆してしまう気持ちが心
 の隅にあった。
 「俺は───……」
  涼介に何か言おうとして、けれど啓介は言葉を繋げなかっ
 た。
  身体が熱かった。
  傷口から発熱しているのかもしれない。今まで全然気にも
 していなかったのに、頭がひどく痛んだ。
  それでも啓介をじっと見つめてくる涼介に、何か言わなけ
 ればいけなかった。
 「……俺は、涼介さんの事、アニキって思ってる訳じゃない
 んだ」
  ようやく発した啓介の言葉に、涼介は今まで以上に傷つい
 た顔をした。
  それを何とか払拭したくて、啓介は慌てて叫んだ。
 「アニキとかじゃなくて、俺はただ、涼介さんが好きだから
 ───」
 「……え?」
  思いがけない啓介の言葉に、涼介はまるで縋るように啓介
 を見つめ返した。
  その視線にもうどうしようもなくなって、啓介は涼介の手
 を掴みそのまま抱き寄せると、咄嗟のことに反応できないま
 まの涼介に初めてキスをした。
  唇をぶつけるようなキスだった。
  それでもそれは啓介を酔わせた。涼介の唇は啓介の想像以
 上に柔らかかった。
  涼介の唇に夢中になり、啓介は更にキスを深めようとした。
 「…………!」
  その時、涼介の手が啓介の腕を制止するように動いて、そ
 れで啓介は我に返った。
  慌てて離れると、当たり前だが目の前に涼介の顔があった。
  涼介は両目を見開いて、ただただ呆然としていた。
  そんな涼介の様子を目の当たりにして初めて、啓介は自分
 がとんでもない事をしてしまったという事に気がついた。
 「ご……ごめん!!」
  啓介は弾かれたようにリビングを飛び出した。
  廊下に出ると視界の端に二階から下りてきた史浩の姿がチ
 ラリと映ったが、構っている余裕など今はなかった。
 「おい、啓介っ?」
  史浩の引き止める声も振り切って、啓介はそのまま家を飛
 び出した───。


 
  


看護士さんに傷口を縫われた時、ほんとにしみじみと雑巾を思い出していました(−−;)
しかし看護士さんが縫っちゃいけないと知ったのは、それから10年以上経ってからです。
だってまさかしちゃいけない事だったなんて、思いもしなかったですからね〜(^^;)





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