B meets B
26





  史浩に妹ができると聞いたのは、涼介が小学六年生になる
 直前だった。
 「……妹?」
 「うん。今年の夏に生まれるって」
  少し照れくさそうに、けれど嬉しそうに幼なじみの彼は顔
 をほころばせた。
  涼介も史浩もお互い一人っ子だった。ずっとそれで過ごし
 てきたせいだろうか、そのニュースは涼介の耳にひどく印象
 に残った。
 「妹か……。いいな」
 「お前にだっているだろ、緒美ちゃんが」
 「……ああ。うん、そうだけど」
  史浩の言う通り、『妹』なら涼介にも一人いた。ただし五つ年
下のいとこの彼女は、妹扱いすると何故か嫌がったけれど。
 「……そうだな」
  『妹』なら緒美がいる。
  だから『弟』が欲しいと涼介は思った。
  母のいない今、それは望んでも無理な事だけれど、でもで
 きるなら───。
  それはまだ小学生だった涼介の、密かな密かな願いになっ
 た。


  涼介のその願いはそれから数年後、思いがけずかなう事に
 なった。
  ある日いきなり、父親が再婚話を切り出してきたのだ。
 「……再婚?」
 「そうなんだ。再婚したい人がいるんだ」
  ずっと、互いにあまり干渉しない親子であったので、少々
 唐突な話に涼介は目を瞬かせた。
  ただしそれは再婚話自体にではなく、父親にそういった相
 手がいるという事に対してであった。いったいいつの間に、
 そんな相手と知り合っていたのか。
  父親は涼介に相手の女性の事を話し始めた。
  聞けば二人の出会いは病院で、医者と患者としてだったら
 しい。
 「その人に家族は?」
 「ああ……。あちらにも息子さんが一人いる」
  少しためらいがちに、父親は涼介に答えた。
 「いま十三歳だって聞いている。もしも再婚したら、涼介に
 は弟になる訳だ」
 「…………」
  弟。
  その父親の言葉は、涼介の心の奥に響いた。
 「いきなりこんな話をして、お前も驚いただろう」
  押し黙ってしまった涼介に、父親は気まずさを感じたのか
 話を終わらせようとした。
 「いますぐ返事をくれとは言わないから、涼介も考えてみて
 くれないか」
 「いいよ」
 「……なに?」
  今日もらおうと思ってはいなかった返事に、父親は目を丸
 くした。
  そんな父親に、涼介はにこやかに了承の意を伝えた。
 「俺はいいよ。父さんが再婚しても」
  そして父親の再婚とともに始まった新しい生活。
  やってきた義母と、そして義弟───。
  それは涼介の想像以上に慌ただしい、けれど賑やかで晴れ
 やかな楽しい毎日となった。


  涼介は夢を見ていた。
  子供の頃の夢───そして、つい先日まで涼介の周りにあっ
 た日常の夢だった。
  けれど現実には涼介以外には誰もいない。皆いなくなって
 しまった。
  以前と同じく一人で過ごす家───。
  ただ昔に戻っただけなのに、自分以外の気配のない家は妙
 な居心地だった。
  だからこのままでいたかった。
  目を閉じたまま、ずっと眠っていたかった。
  けれど何かが眠る涼介の意識に触れた。
  それは声だった。微かな───泣き声のような。
  自分でも不思議だったけれど、眠ってしまうと涼介には誰
 の声も届かなかった。
  しかしたった一つ、ある名称で涼介を呼ぶ声だけは別だっ
 た。逆に誰の声でもどんな呼び方でも、たった一つの意味を
 持つ言葉なら必ず、それは涼介を目覚めさせた。涼介を起こ
 す時だけは幼なじみもそう呼んだ。
  けれどその声は違っていた。
  それなのに、不思議とその声は涼介の意識に届いた。
  耳に馴染んだ、よく知っている声───それが涼介の意識
 を目覚めさせた。
  薄く瞼を開くと、そこは確かに涼介が眠りについた部屋だっ
 た。
  どれくらい眠っていたのかわからない。けれど部屋は暗い
 ままで、特に変わった様子はないようであった。
  ただ、ベッドに眠る涼介の傍ら───その枕元に人の気配
 があった。
  見つめているとしばらくして、暗闇に慣れた瞳に頭に包帯
 を巻いた少年の姿が映った。
 「啓介……?」
  泣いているのは啓介だった。声を殺して、でも確かに泣い
 ていた。
  涼介が小さく呼びかけても返事はなく、ベッドに顔をうつ
 伏せたまま、ただ泣くばかり。
  涼介はその髪に優しく手を伸ばした。小さな子供にするよ
 うに、傷に触れないようにそっと撫でてやった。
 「……どうしたんだ? 傷が痛むのか?」
  啓介はわずかに首を横に振って、けれど顔はそのまま上げ
 なかった。だから涼介はそのまま啓介の髪に触れていた。
 「……俺、涼介さんの弟に生まれたかったな」
  長い沈黙の末───啓介はつぶやいた。涙をこらえようと
 してかなわなかった、くぐもった声だった。
 「涼介さんの弟に生まれたかった」
  そう言って顔を上げた啓介の頬は、涙で濡れていた。その
 瞳から流れる涙は今も止まらない。
  泣きはらした瞳で、啓介は真っ直ぐ涼介を見た。
 「そしたらずっと、一人になんかさせなかったのに───」
  生まれた時からずっと一緒にいられたのに。
  こんな風に寂しい思いなんかさせなかったのに。
  先刻帰宅して、啓介は涼介を探した。しかし家には明かり
 の一つもついてなく、この暗く冷えきった家の中に、本当に
 涼介がいるのかと思った。
  けれど涼介はいた。
  啓介の部屋で眠るその姿を見つけた時───啓介は言葉を
 なくしてしまった。
  そして再婚前、涼介はこんな寂しい家で、たった一人で過
 ごしていたのだと初めて気づいたのだ。
  けれどきっと涼介は、寂しいなんてわかっていないだろう。
  自分がどんなに寂しい思いをしていたのか、気づいてもい
 ないのだろう。
  そんな涼介を、啓介はまた一人にさせてしまったのだ。
  そう思ったら涙が止まらなかった。
  ポロポロと涙を零し続ける啓介の頬に指を伸ばし、涼介は
 その涙を拭った。
  温かい涙だった。涼介のための涙だ。
 「……でも、これからは一緒なんだろ?」
  ずっと欲しいものがあった。
  たった一人でいい。一緒にいてくれる人が欲しかった。
  だから『弟』が欲しかった。兄弟なら、ずっと一緒にいら
 れると思ったのだ。
  一緒にいてくれるなら───弟になってくれるなら誰でも
 よかった。
  ───けれど今は違う。
 「……だったらいいよ」
  啓介以外など考えられない。
  啓介でなければ嫌だった。
 「一緒にいてくれるなら、いいよ」
  涼介は啓介に触れた手を離さなかった。
  それは、涼介がずっと欲しかった温もりだった。


  翌日の昼前、啓介はキッチンに立ち、鶏肉や三つ葉を切っ
 ていた。
  お節料理など作った事もないし到底無理だったが、せめて
 今からでも涼介に正月気分を味わってもらおうと、雑煮作り
 にいそしんでいた。
 「餅、コンビニのパック物なんだけど……いい?」
 「お前が作ってくれるのなら、何でもいいよ」
  涼介はひどく嬉しそうだった。
  キッチンのダイニングテーブルに向かいながら、涼介はお
 となしく啓介の後ろ姿見つめている。
 「餅、何個食べる?」
 「二個」
  数を確認しようと振り向いた啓介は、涼介にニッコリと微
 笑まれた。
  その幸せそうな笑顔に啓介は見とれた。もしも実の兄弟に
 生まれても、絶対涼介を好きになると確信していた。しかし
 次の瞬間顔を真っ赤にして、慌ててまな板に向き直った。
  涼介の顔を見ると、どうしても昨夜の事を思い出してしま
 う。涼介の前であんなに泣いてしまったのかと、思い返すと
 顔から火が吹き出しそうだった。
  けれど啓介には心に決めた事が一つあった。
  絶対に涼介と離れない。
  親が離婚したらどうするのかとか、母親と離れるのかとか、
 難しい事までは考えていない。
  けれどもう二度と、涼介を一人にはさせないと決めたのだ。
  絶対に───。
  そんな決意を改めて固めるうちに、雑煮が出来上がった。
  啓介が二人分のお碗を棚から出していると、突然玄関の開
 く音がした。
 「たっだいまー!」
 「ただいま」
  それは聞き覚えのある声だった。それにこの家にただいま
 と帰ってくる人間は、涼介と啓介の他には二人しかいない。
 「もしかして……」
 「あ、涼介さん!」
  玄関に向かう涼介の後を、お碗を持ったままの啓介も慌て
 て追いかけた。
  そして玄関へと続く廊下に出ると、そこには予想通りの人
 物がいた。
 「父さん、義母さん……!」
 「あら涼介君、啓介。久しぶり」
 「あけましておめでとう」
  スーツケースとともに立っていたのは涼介の父と啓介の母
 だった。
 「今までどこ行ってたんだよ!?」
 「どこって……ハワイに決まってるでしょ」
 「行ったの!?」
 「行ったに決まってるでしょ」
  会った途端に猛然と食ってかかってくる啓介に、母親はあっ
 さりと答えた。
 「キャンセルしたってあんな差し迫ってからじゃ料金返って
 こないし、行くしかないじゃない」
 「父さんも?」
 「ああ。病院の方が一段落してから追いかけたんだ」
  涼介の質問に、父親はどこか照れながら答えた。
  そういえば───父親の連絡先を探しに入った部屋には、
 スーツケースが見当たらなかった。という事は啓介が怪我を
 したので病院に行っている間に、一度帰宅していたのだろう。
  しかし今更気づいても遅かった。
 「もう、よかったわよーハワイは!」
 「また行きたいなあ」
 「そうね」
  ほんのりと日焼けした二人は、ハワイでの楽しい日々を思
 い出したのか、幸せそうに見つめ合った。
  家を飛び出す前に大喧嘩していたのが嘘のようだ。
 「……母さん、義父さんと仲直りしたの?」
 「そりゃ、ハワイまで追っかけてきてくれたのよ。許してあ
 げるしかないじゃない」
 「じゃあ、離婚するってのは……」
 「何でしなくちゃいけないのよ」
  脱力感に啓介はがっくりと肩を落とした。
  そういえば歳が歳なんですっかり忘れていたが、この二人
 は新婚夫婦だったのだ……。
 「あら、どうしたの啓介。その包帯」
 「留守中、何かあったのかい?」
  ようやく啓介の頭の包帯に気がついたのか、二人がそれぞ
 れ聞いてくる。
  その新婚ボケぶりに、啓介は手にしていたお碗をゴトゴト
 と床へ落としてしまった。もう怒りを通り越して呆れ果てる
 しかなかった。
 「この夫婦は……」
 「ちょっと、何やってんのよ啓介」
  母親は息子の奇行に眉を寄せた。
 「ま、詳しい話は後で聞くわ。それより二人とも、お土産買っ
 てきたからね。いま荷物開けるから───。啓介、お茶淹れ
 てちょうだい」
  けれどそれ以上追求する気もないのか、落ち込む啓介を残
 してさっさとリビングに向かってしまった。
 「何やってんだって……そりゃこっちの台詞だよ」
 「啓介?」
  俯いたままの啓介を心配して、涼介が顔をのぞき込んでく
 る。
  しかし啓介は座り込んだまま、しばらく立ち上がれなかっ
 た。


 「……それで、お袋さんは何だって?」
  出されたお茶を飲みながら、史浩は聞いてきた。
 「その髪形なら、たとえ傷口の毛がなくなっても誤魔化せる
 からよかったわねー、だってさ」
 「なんだか、らしい意見だな」
 「笑い事じゃねーよ!」
  可笑しそうに笑う史浩に、啓介は食ってかかった。
 「まあまあ、四針ぐらいじゃハゲやしないから安心しろ」
 「本当だろーな?」
 「大丈夫、大丈夫」
  どこか人をホッとさせる笑顔で史浩は答えた。啓介はそれ
 に納得して、お茶を啜った。
  そんなリビングに、涼介が手に箱を持って入ってきた。
 「史浩、これが父さんたちから預かった土産だ」
 「ああ、サンキュ。お礼言っといてくれ」
  言いながら史浩に、親たちが買ってきたハワイ土産を渡し
 た。包装紙に包んであったが、どう見てもそれはチョコレー
 トだった。
  リビングに用意したお茶は三人分だけ。旅行から帰ってき
 た二人は、もう今日から仕事に出かけていた。
  今時チョコなんかと啓介は思ったが、史浩は嬉しそうにそ
 れを受け取った。啓介と涼介の分はもう既に、数日遅れのお
 年玉と一緒にもらっていた。
  史浩と啓介は向かい合わせにリビングのソファーに座って
 いたが、涼介は啓介の隣に腰を下ろした。
  その二人の姿を眺めて、史浩は安心すると同時にちょっと
 新鮮な感覚を味わっていた。
 「それにしても今日は驚いたよ。お前が起きて出迎えてくれ
 るんだもんな」
 「啓介が起こしてくれたんだ」
 「起こしたっつーか……。呼んだら、なんでだか涼介さんが
 起きてくれただけだよ」
  不思議そうに啓介は言った。
  史浩が起こしても緒美が起こしても、起きなかった涼介で
 あるのに───。
 「涼介さん、何で?」
 「俺に聞かれても……」
  首を傾げる啓介に、やはり涼介も首を傾げた。
  史浩はそんな二人を微笑ましく見ていた。
  明後日から三学期が始まるが、どうやら史浩の朝の一仕事
 はもう必要ないようだった。僅かに寂しくもあったが、そん
 な事は大した問題ではなかった。
  だって啓介が帰ってきて、涼介が嬉しそうに微笑んでいる
 から。何より涼介の新しい家族がいなくなってしまわないで、
 本当によかったと史浩は思っていた。
 「……お前らの仲の良さも、充分新婚夫婦みたいだよ」
 「夫婦な訳ねーだろっ!!」
  史浩の冗談に、啓介は瞬時に真っ赤になって叫び返した。
  涼介は目を真ん丸にして、それを受け止めた。
 「できない事もないんだぜ」
  その対照的な様子があまりにもおもしろくて、史浩は調子
 にのってそのまま続けた。
 「同性同士の結婚って、日本じゃ養子縁組だからな」
 「そうなのか?」
 「でなきゃ同じ籍に入れないだろうが」
 「あ、そっか……」
  なるほどと啓介は納得したが、涼介は考え込んだままだっ
 た。
  そして史浩と啓介が内心、そろそろこの話題は終わりにし
 ようと思った時───唐突に涼介が口を開いた。
 「……じゃあ、俺と啓介も結婚してるのかな?」
  その台詞に、史浩と啓介はそろって飲んでいたお茶を吹き
 出した。
 「りょ、うすけ、さん……っ!!」
 「お前、なに言って……!!」
  ゴホゴホと咳き込みながら涙目で訴える二人に、涼介は不
 思議そうに聞き返してきた。
 「だって、同じ籍に入ってるだろ?」
 「そっ、それは───」
  素直に問われて、啓介は焦った。
  その様子があんまり無邪気すぎて、逆に不安に陥った。
  啓介の告白は仲直りの喜びに有耶無耶になったと思ってい
 たが、もしかして涼介はわかっているのだろうか。
  啓介の気持ちとか───そして何より涼介自身の気持ちは
 どうなのか。本当の本当はわかっているのだろうか。
 「啓介?」
  啓介の混乱など知る由もなく、涼介は隣に座る啓介を見つ
 めてきた。
  その表情はこの上なく幸せそうだ。
  そんな嬉しそうな涼介の様子を見ていると、啓介の胸も温
 かいもので満たされる。
 『……ま、いいか』
  もしもわかっていなくても、少しずつわかってもらえばい
 い。
  時間はまだまだあるのだから。ずっと傍にいるのだから。
  これから先も、ずっとずっと───。



                             〈END〉

 
  


この話を書くにあたって、目的が二つありました。
一つは啓介に「涼介さん」と呼ばせてみるという事。
もう一つは他人として生まれた時、二人はどーなるのかという事を書いてみたかったのです。
こんな性格の涼介さまはもう書く事はないと思います。
私的には啓介をとっても幸せにしたと思ってるのですが……啓介ファンの方、いかがでしたでしょうか(^^;)
おつきあいありがとうございましたm(__)m





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