B meets B





   中学校の昼休み───啓介は同じクラスの友人たちと、立
 入禁止の屋上に上がってのんびりとくつろいでいた。
  空は青く澄み渡り、そよ吹く風もすがすがしい事この上な
 い。昼寝をするにはまさに絶好の日和───なのに、啓介は
 友人たちから離れて屋上の端で一人暗い顔をしていた。重苦
 しいため息を何度もつき、頭を抱え込んだまま顔を上げよう
 ともしない。
  そんな啓介の様子を見るに見かねて、仲間の一人が歩み寄
 り声をかけてきた。
 「高橋、何か疲れてねーかぁ?」
 「…………疲れてるよ」
  友人の問いに啓介は身も蓋もない返事をポツリと返した。
  その態度に気を悪くする風もなく、友人は言葉を続けた。
 「やっぱ新しい家族との生活って大変か?」
 「……まあな」
 「それにしてもずいぶんくたびれ果ててねえか?」
  啓介の母が再婚した事は親しい仲間たちには話してあった。
  さすがに吹聴してまわったりはしなかったが、別に隠す事
 でも恥ずかしい事でもない。
  名字が変わる訳でもなく、啓介の生活は何も変わらなかっ
 た。いや、変わらないはずだった。
  新しい家に引っ越して三日。あまりの啓介の憔悴ぶりに、
 友人たちは驚きを隠せなかった。
 「何をそんなに困ってるんだ?」
 「別に……」
  啓介は友人の言葉にハッキリとした答えを返さなかった。
 俯いたままのその様子はあまりにも啓介らしくなかった。
  しかしそんな啓介の態度に思い当たる節がある友人は、ニ
 ヤリと悪戯めいた笑みをその顔に浮かべた。
 「高橋ィ。お前、おばさんが結婚しちまって寂しいんだろ?」
  母一人子一人の啓介はそれはもう母親の事を大切にしてい
 た。それを親しくしてる遊び仲間たちは皆知っていた。
  本人に言ったらぜったい殴られるのであえて口にはしなかっ
 たが、高橋の奴はぜったいマザコンだ───なんて前々から
 言っていたのである。
  だから今回の母親の再婚話について平気な顔をしてはいた
 が、実は内心けっこうショックなんじゃないかと皆で笑って
 ───もとい、心配していたのだ。
  しかし啓介の返事はそれを頭から否定するものだった。
 「バッカ野郎! 幼稚園児じゃあるまいし、んな訳あるか」
 「じゃあ何なんだよ」
  ムッして啓介を睨みつけると、さすがに啓介もバツの悪そ
 うな顔をした。
  無言のまま啓介の返事を待っていると、しばらくの間をお
 いて───ようやく啓介が小さく口を開いた。
 「涼介さんが……」
 「涼介さん、て───ああ、お前の義理の兄さんになったっ
 ていう人か」
  聞き取りづらい啓介の言葉をそれでも友人は聞き逃しはし
 なかった。
 「それで? その兄さんがどうしたって?」
 「涼介さんが───……色っぽすぎる」
 「……はぁ!?」
  至極マジメな啓介のマトモとは思えない一言に、友人は思
 わず屋上のアスファルトの上に倒れそうになった。


  涼介の父と啓介の母は先日めでたく入籍をすませた。
  本人たちの希望で式も披露宴も行わなかったが、もうしば
 らくして落ち着いてから新婚(?)旅行にだけは行くとの事
 だった。
  そして入籍と同時に、啓介と母は涼介の家へと引っ越した。
  長年住み慣れたアパートを引き払うにあたって、啓介はら
 しくもなく落ち込むかなとも思っていた。しかし現実には容
 赦なく啓介をこき使う母によって、そんな感傷にひたってい
 る暇はまったくなかった。もちろん引っ越し自体は業者に頼
 みはしたけれど、荷物の指示やら何やらでのほほんとしては
 いられなかったのだ。
  また啓介の母は再婚後もしばらく仕事を続ける事になった。
  生活自体はまったく苦しくなくなったのだが、先日同僚の
 一人が急に仕事をやめているので、母の職場も大変なのだそ
 うだ。
  そんな事情を義父はあっさりと快諾した。
  そんなこんなで、新しい家族の生活が始まった。


  引っ越した翌日の朝、啓介が早めに起き出して一階へ降り
 ていくと、キッチンで母親が朝食作りにとりかかっていた。
 昨夜の夕食は出前で済ませたので、今日が主婦業兼母親業の
 第一日目という訳だ。
  もうここ何年も母が啓介より先に起きている事などなかっ
 たので、啓介は驚いて朝の挨拶も忘れてしまった。
 「すげーな母さん。さすがに気合はいってんなぁ」
 「あら、おはよう啓介。ちょっと手伝ってよ」
 「へいへい」
  啓介が腕まくりをして手伝おうとした時、そこに義理の父
 親もやってきた。
 「おはよう、二人とも」
 「おはようあなた」
 「あ、おはようございます」
  起きてきた父親は、妻はともかく新しい息子まで起きてい
 たのに少々びっくりした顔をして見せた。
 「啓介君は早起きだね」
 「まあ、習慣みたいなもんですから」
 「習慣?」
 「ちょっと啓介、はやく手伝ってよ」
  啓介によけいな事をしゃべらせる前に、母は啓介の腕をひっ
 たくって夫から遠ざけた。それに苦笑しながら、義父はキッ
 チンの隣のリビングに引っ込んだ。
  啓介を巻き込んだ朝食の支度───そうしてそれが八割ほ
 ど済んだところで、母はリビングにいる夫に声をかけた。
 「涼介君はまだ寝ているの?」
 「あいつは……たぶん、当分起きてこないよ」
  その言葉に母は目を丸くした。キッチンにいたままの啓介
 もその一言に耳をそばだてた。
  どういう事かと啓介が口を開きかけた時、その疑問を母が
 そのまま問いかけていた。
 「何で? 今日、高校休みじゃないでしょ」
 「そうだけど、あいつはとにかく朝に弱いんだ。いや朝だけ
 じゃないか……。とにかく朝食は先に食べた方がいい。啓介
 君まで遅刻するかもしれない」
  義父の言葉は歯切れが悪く、今いち要領を得なかった。埒
 があかないと思ったのか、母はキッチンにいる啓介に向き合っ
 た。
 「じゃあ啓介、あんたが涼介君起こしてきて」
  母の言葉に啓介はドキリとした。
  しかしそれを───何故か義父が止めた。
 「やめておいた方がいい。そのうち史浩君が来て起こしてく
 れるだろうし」
 「フミヒロ……?」
  初めて聞く誰かの名前。それに啓介は疑問を抱いたのだが、
 それが誰なのかを聞く前に母の言葉が啓介を二階へと追い立
 てた。
 「ダメよ! ぜったい四人一緒に食べるの!」
  そういえば母のモットーの一つは確か───『最初が肝心』。
  二階へ続く階段を登りながら、やれやれと啓介はそんな事
 を思い出していた。


  実は今朝の啓介は寝不足だった。
  新しい家で眠る最初の夜に緊張した───訳ではない。隣
 の部屋に涼介が寝ているかと思うと、それだけで寝つけなかっ
 たのだ。
  おまけにやっと眠れたと思ったらすぐに目が覚める。一晩
 中その繰り返し。
  義父に言った早起きの習慣。それは紛れもない事実だった
 けれども、今日の早起きの理由の半分はそのせいだった。
  気の重さと正比例した足取りでノロノロと階段を上ると、
 涼介の部屋の前にたどり着いてしまった。一度は入った事も
 あるけれど、そこはやはり啓介にとって敷居が高いことこの
 上ない部屋だった。
  涼介が自分で起き出してくれないかとしばらく部屋の前で
 待ってはみたが、ドアの向こうからはそういった気配が微塵
 も感じられない。
 「仕方ねーなぁ……」
  啓介はつぶやいて、そして覚悟を決めた。コンコンと涼介
 の部屋のドアをノックする。
  それに対する返事はない。
  もう一度───今度はノックしながら声をかけた。
 「涼介さん、入っていい?」
  やはり涼介の返事はない。
  仕方なく啓介がノブを握りしめ右にまわすと───鍵のか
 かっていなかったドアはあっさりと開いた。
 「おはようございまーす……」
  小声で朝の挨拶を口にしながら、啓介は涼介の部屋に足を
 踏み入れた。
  先日入った時と変わりないシンプルな部屋。カーテンの引
 かれた部屋はいまだ薄暗く、けれどその裾からは明るい朝の
 光が差し込んでいた。
  視線を巡らしベッドを見れば、そこに涼介はいた。
  啓介は緊張しながら恐る恐るそこへ近づいた。
  枕元をそっと伺えば、涼介は横を向いて───静かに眠っ
 ていた。
  初めて拝む涼介の寝顔に、啓介はしばし見とれてしまった。
  口元まで布団をかけているので表情こそよくわからないが、
 瞼を閉じたその目元はいつもの涼介とは違った印象を啓介に
 与えた。
 『すげえ、睫毛長ぇ……』
  勝手に高鳴っていく自分自身の心臓の音にハッと我に返り、
 啓介は頭をブンブンと振った。悠長に涼介に見とれている場
 合ではなかった。
  中腰の姿勢のまま、啓介は涼介に声をかけた。
 「……涼介さん、起きてよ」
  涼介の返事はない。
 「もう朝だよ。みんな涼介さんが起きるの待ってるんだぜ」
  再び啓介が声をかける。しかしそれに答えるのは涼介の穏
 やかな寝息のみだった。
  困った啓介は涼介の耳元に顔を寄せ大きく息を吸い込み、
 三たび涼介に呼びかけた。
 「涼介さん!」
  かなりの大声で呼んだつもりだった。
  しかし涼介は相変わらず───眠ったままだった。
  考え込んだ末に仕方なく、啓介は涼介の上掛け布団を肩口
 まで剥いだ。胸がドキドキしたけれど、やましい心は出来る
 だけ心の隅の方に押しやった。
  大声で涼介を呼びながら、啓介は涼介の肩を掴んで思いっ
 きり揺さぶった。
 「涼介さん、起きてよ! 涼介さん!!」
  啓介の必死の呼びかけが届いたのか、そこまでしてようや
 く涼介がわずかに眉を寄せた。
  続いて睫毛が震え、唇が薄く開いた。
 「……───ん」
  そうして本当にうっすらと───涼介が瞼を開いた。
  涼介の黒曜石のような瞳を見て、啓介がホッとしたのはこ
 の時が初めてだった。
  しばらくそのままでいたかと思うと、あくまでゆっくりと
 した動作で涼介はベッドから上半身を起こした。
 「涼介さん、目が覚めた?」
 「………………」
  啓介の呼びかけにも涼介は答えない。瞼こそ開いてはいる
 ものの、その視線はまったく虚ろなものだった。
  啓介がもう一度涼介の名を呼ぼうとした時、不意に涼介の
 上体がゆらりと傾いた。
 「涼介さ……!」
  啓介は慌ててそれを支えようとして涼介に手を伸ばしたが
 ───そのまま涼介を抱きとめるような形でベッドに座り込
 んでしまった。
 「───!!」
  その時、啓介が叫び声を上げなかったのはまったくもって
 奇跡だった。
  一度は起きた涼介であったが、なんと再びベッドに横になっ
 てしまった。まるで胎児のように背中を丸めたまま。
  そうして啓介は今度はしっかりと、横顔ではあったが涼介
 の寝顔を拝む事になった。
  瞼を閉じた涼介は、その印象が少しだけ幼くして見えた。
  なのにパジャマの襟元がたわんで白い肌と鎖骨が垣間見え
 る様子は、反対にたまらなく煽情的なものだった。
  しかし何よりも啓介を慌てさせたのは別の理由───なん
 と啓介の太股に涼介の頭がのっていた。啓介にひざ枕をさせ
 て、涼介はすやすやと寝入ってしまっていたのだ。
  まったくの偶然であるが、涼介にこんな風になつかれると
 は啓介は夢にも思っていなかった。
  涼介の温もりが、唇が、吐息が───布越しとはいえ触れ
 てきて、それは啓介にとってこれ以上はない誘惑だった。
 「りょ……涼介さん」
  うろたえきった心情のまま、それでも涼介を起こさなけれ
 ばと啓介はその名前を口にした。しかしその声に先刻ほどの
 勢いはなく───涼介の眠りはますます深くなっていくよう
 であった。
  いつまで経っても戻ってこない息子に焦れた母親が乗り込
 んでくるまで、啓介はそのままの体勢でピクリとも動けなかっ
 た。


  「涼介さんって……義理の兄さんだよな」
 「ああ」
 「なんで兄さんが色っぽいんだ? 姉さんならわかるけどよ」
 「俺だってわっかんねーよっ!」
  眉を寄せて訝しげに問いかけてくる友人に、ほとんどヤケ
 になって啓介は叫び返した。
  そんな一騒動が引っ越してから毎朝繰り返されているのだ。
  啓介は自分が理性的なタイプではないという自覚はある。
  それでも一般的にしていい事と悪い事の区別はついている
 つもりである。つもりではあるけれど───このままではい
 つか、とんでもない事をしでかしてしまいそうな予感があっ
 た。
  それも極めつけにヤバい事を───。
 「俺は一体どーすりゃいいんだあっ!!」
  頭を抱えて啓介は叫んだ。
  傍らの友人は、呆れたように一言つぶやいた。
 「……高橋の奴、マザコン卒業したと思ったら、今度はブラ
 コンかぁ……?」
  そんな友人の言葉は啓介の耳には届かず───ただ啓介の
 叫びだけが青空に響くばかりであった。

 
  





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