B meets B





   「……母さん。俺の食事当番って、朝だけじゃなかったっ
 け?」
 「助かるわぁ啓介。なんたってあんた、あたしより料理上手
 だしー」
 「母さんと比べたら誰だって上手だろ!」
  夕刻の高橋家のキッチン。母親は洗濯物を抱え佇み、かた
 やその息子は夕食の支度をさせられていた。
  今までは朝食の支度のみが啓介の分担になっていた。けれ
 ど仕事から疲れて帰ってくる母の姿を見兼ねて、「今日の夕
 飯は俺が作るよ」などと何度かしゃしゃり出たのが間違いの
 元だった。
  一週間に一度が二度になり、そうして三度になり───…
 …。
  新しい生活がスタートして早一ヶ月、今では夕食の支度ま
 で啓介の分担になりつつあった。
 「そんなんでいーのかよ? 俺だけならまだしも義父さんや
 涼介さんだっているんだぜ。少しは───」
 「でもあんたが作ってくれた方が、心なしか涼介君の食も進
 むみたいだし」
  啓介の小言は母親の何気ない一言に途切れた。
 「それにあたしもあんたの料理の方が食べ馴れてるし───
 ……って、啓介。あんた熱でもあるの? 真っ赤よ、顔」
 「……何でもねーよ」
 「そう? ならいーけど」
  母親はそれ以上は啓介を問いたださずにキッチンを出ていっ
 た。それにホッとした啓介は包丁を握りなおし、やれやれと
 まな板に向かった。
 「仕方ねーなあ───」
  口ではそうは言いながら啓介の表情は明るかった。顔の火
 照りもいまだひいてはいなかったけれど、どこか嬉しそうな
 様子だ。
  母親が言ったことはあながち間違いではなかった。
  涼介は義母が作った料理より、啓介の作った料理の方をよ
 く食べてくれていた。決して食が細い訳ではないのだろうが、
 啓介の味付けの方が口にあうらしかった。
  一緒に暮らしはじめてようやく知った事ではあるが、涼介
 の食生活はちょっと変わっていた。
  時々ある二人きり(!)の夜に涼介に何が食べたいかと聞
 けば、大概「何でもいい」との言葉が返ってくる。
  それに啓介が頭を悩ませているのを見た涼介は、「大変だ
 ろうからいいよ」と言って適当に食事を済まそうとした。
  しかしそれがカップラーメンとかレトルト食品ならまだし
 も、涼介が食べようとしたのは、煎餅やチョコレートや果物
 ───あくまで手のかからない、その時キッチンで目につい
 たものばかりだった。極めつけではなんとコーラで夕食にし
 ようとしていた。
  啓介は何度それを止めて慌てて夕食を作り、その席に涼介
 を着かせた事か───。
  どうも涼介は味覚が子供らしかった。
  つい最近知った事ではあるが、甘党、辛党といった偏りは
 ないにせよ、口当たりの柔らかい食べ物が好きらしい。
  もちろん高校生はまだ大人ではないけれど、この点に関し
 ては涼介より啓介の方がまだ大人に近いと思っていた。
  引っ越し一日目の出来事。出前で寿司をとった時に知った
 事柄が、啓介に決定的にそう感じさせていた。
  何も知らぬ啓介の母が四人前の寿司を注文したが、中学生
 の啓介が大丈夫なのだから、当然さび抜きなど思いつきもし
 なかった。
  その結果、夕食の席で涼介は寿司を食べながらポロポロと
 涙を零し、啓介のみならず母まで慌てる羽目になってしまっ
 た。
 「ど、どーしたんですかっ!?」
 「涼介君もしかして、泣くほどお寿司嫌いだったの!?」
 「いえ……。何でもな───……」
  涙ながらにつぶやいた涼介であったが、その先は言葉にな
 らなかった。それを見兼ねて言葉を継いだのは涼介の父であっ
 た。
 「すまん、言い忘れてた。涼介はわさびがダメなんだ」
  あの時の脱力感を啓介は今でも鮮明に覚えていた。
  ちなみに嫌いなものもニンジン、ピーマンを筆頭に山ほど
 あるらしい。それは史浩から聞いたのだが、でもその件に関
 しては啓介にはいまいち実感がなかった。
  だって涼介は啓介の作る料理ならいつも喜んで食べてくれ
 ているからだ。
  ちなみに啓介には特に好き嫌いはない。美味いか不味いか
 はともかく、大概何でも食べられた。
 「……今日はシチューにするか」
  気合を入れなおし、啓介は冷蔵庫その他から手際よく材料
 を取り出した。
  コーンをたっぷり入れたそれは、以前一度作った時に涼介
 が特に喜んで食べてくれた品の一つだった。


  「よし、とりあえず出来た」
  大した時間もかからずシチューは完成した。鍋の中でコト
 コトと音を立てているそれは、作った本人にも美味そうに見
 えた。
  その匂いにつられたのか、母もキッチンにやってきてその
 鍋の中身をのぞき込んだ。
 「あら、美味しそうねえ」
 「当たり前だろ。母さん、夕食何時にする?」
  シチューこそ出来上がったが、サラダや何やらを用意する
 のはこれからだった。それでも支度を始めれば、すぐに用意
 する事はできた。
 「今日は三人きりだし、あたしは今すぐにでも食べたいわね」
  この家の主は医者としての仕事が忙しく、夜勤ではないが
 今日も帰りが遅くなる予定だった。母は少しだけ寂しそうに
 そう言ったが、シチューを一口味見してすぐに機嫌を直した
 様だった。
 「啓介、涼介君に聞いてきてよ。さっき洗面所の方に歩いて
 行ったから」
 「へいへい」
  相変わらず人使いの荒い母であったが、啓介はその言葉に
 従った。
  言われたとおりに家の奥の洗面所に足を運べば、そこに続
 く廊下の戸がきっちりと閉められていた。
  啓介は深い考えもなくその戸をノックした。
 「涼介さんいる? ちょっといい?」
 「ああ、どうぞ」
  呼びかけに間髪を入れずに涼介の声が返ってきた。
  確かに涼介の返事を確認して、啓介はその引き戸を開けた。
 立てつけのいいそれは難なく啓介の意に従った。
 「夕食だけど、何時ごろ食べ───」
  そう言いながら視線を上げれば、そこに涼介が立っていた。
  立ってはいたが───。
 「うわぁっ!!」
  その姿を見た途端、啓介は思わず叫び声を上げてしまった。
 「啓介?」
 「ごっ……ごめん!!」
  大声で謝りながら、啓介はその場から逃げ出した。そして
 大慌てで後ろ手に戸を閉めた。
  勢いのまま咄嗟に動いたはいいがどうしたら良いかわから
 ず、荒い息で肩を上下させたまま、啓介はその場にズルズル
 と座り込んでしまった。
 「…………み、見ちまった」
  涼介は裸だった。
  正確には上半身だけ裸だった。たった今脱いだのであろう
 シャツを手にしたまま、入ってきた啓介に振り向いた。
  何も纏っていない白い肌とか、淡い色づきのある胸とか、
 驚くほど細い腰とか───そういったものすべてが一瞬のう
 ちに、啓介の視界に飛び込んできた。
  常日頃から涼介の胸元から覗く鎖骨に意識を何度も奪われ
 かけていた啓介であったが、その姿は強烈すぎた。
  いま啓介の顔は絶対に真っ赤になっているであろう───
 自らの手で触れた頬は汗ばんでさえいた。顔どころか身体中
 が熱くて仕方がなかった。
  最近ようやく、涼介の顔を見ても慌てなくなったつもりの
 啓介であったが、今は我ながら情けないほど取り乱してしまっ
 ていた。
  そんな事を考えながらその場に座り込んでいた啓介の背後
 で、閉めた筈の戸がガラリと開いた。
 「どうかしたのか?」
 「うわっ!」
  かけられた声に振り向いてすぐ、啓介は叫びながら飛びの
 いてしまった。
  そこには涼介がいた。シャツこそ羽織ってはいたが、しか
 しその服のボタンは一つもかけられていなかった。
  見てはいけないと思いつつ、自らの手で視界を遮ろうと思
 いつつ、啓介の視線は涼介のそのはだけたシャツの狭間に固
 定してしまっていた。心臓はこれ以上なく激しく鼓動をたた
 き、身体中が熱くて熱くて啓介はどうにかなってしまいそう
 だった。
 「あ、あの───ごめん! 俺そんな、見るつもりじゃなかっ
 たんだけど……」
 「……何をそんなに慌ててるんだ?」
  慌てふためく啓介とは逆に、涼介の声はひどく冷静だった。
 「構わないさ。兄弟なんだし」
 「あ…………、そっか。そう……ですね」
  その涼介の一言に、啓介はハッと我に返った。
  義理とはいえ兄弟でおまけに男同士なのだから、涼介の言
 う通りそんなに慌てる必要はないはずだった。
  しかしあいにく啓介にはそれだけではない、非常に焦って
 しまう理由があった。けれどその理由をとてもこの場で涼介
 に話す訳にはいかなかった。
 「で、何の用だったんだ?」
 「え……あ、ああ。ゆ、夕食なんだけど、何時ごろ食べるか
 なって───」
  涼やかな態度の涼介に、しどろもどろになりながら啓介は
 言った。
 「ちょっと早いけど風呂に入ろうと思って……三十分後ぐら
 いじゃダメか?」
 「そんなの全っ然、構わないです」
  涼介の言葉にようやく思い出したが、洗面所の隣には浴室
 があったのだ。
  だから服を脱いでいたのかとようやく納得して、申し訳な
 さそうな涼介の言葉に啓介は力強く返事をした。
  それに微笑んだ涼介は、踵を返し引き戸の向こうへとその
 姿を引っ込めた。
  涼介が離れてくれて(ちょっと残念ではあるが)ホッとし
 た啓介であったが、その心地をしみじみと味わう間はなかっ
 た。
  何を思ったのか涼介が再び踵を返し、またも啓介に近寄っ
 てきたのだ。
  そうして啓介の傍まで歩み寄ってきた涼介が口にしたのは、
 衝撃的な一言だった。
 「何だったら一緒に入るか?」
 「!!」
  啓介は絶句した。
  高校生と中学生の兄弟二人が一緒に風呂に入るなんて啓介
 には思いもよらなかったが、あいにく涼介は本気の様だった。
 とても冗談を言っている風には見えなかった。
  クラクラと歪む啓介の視界の中で、涼介は綺麗に微笑んで
 いた。
 「そしたら背中でも流して…………啓介?」
  その涼介の声をどこか遠いものに聞きながら、啓介はふと
 嫌な感触を覚えた。
  まさかと思いながら恐る恐る鼻の下に手をやり、改めてそ
 の掌を見た。
  すると───啓介の手は、真っ赤な液体でベットリと濡れ
 ていた。驚いて手の甲で鼻を押さえたが、それは一向に止ま
 らなかった。
 「啓介、血が───!」
  顔色を変えて啓介に取り縋る涼介に、頼むから離れてくれ
 と言える筈もなく、啓介は心の中で叫んでいた。
 『一緒に入れる訳ねえだろ───!』
  それでも何とか一言だけ、返事をしようと啓介は口を開い
 た。
 「ぇ……ふぇんりょひます」
  遠慮しますと言ったつもりなのだが、啓介のその返事は鼻
 を押さえていたためにくぐもった音にしかならなかった。


  啓介の鼻血はなかなか止まらなかった。
  ソファーに座り安静にしてはいるが、量こそ減ったものの
 三十分経っても未だにぴたりと止まってはくれなかった。
  それもその筈───鼻血の原因である涼介が、ソファーに
 一緒に座っていたからだった。
 「……啓介、まだ止まらないのか?」
 「だっ、大丈夫! 大丈夫だから───」
  シャツのボタンこそ嵌めてはくれたが、涼介の胸元からは
 相変わらず白い肌と形のよい鎖骨が見えている。たかが鼻血
 なんだから大丈夫だと何度言っても、そういった状況に出く
 わした事が少ないのか、涼介の啓介への心配ぶりは大変なも
 のだった。
  思いもかけぬ涼介の出血大サービスの姿に、啓介の方も文
 字通り大出血となってしまっただけなのに───。
 『俺って、恰好悪ィ……』
  啓介の心中も、恥ずかしいやら居たたまれないやらでもう
 パニックだった。
  そんな二人とは対照的に、かたや母の態度はあっさりした
 ものだった。
 「涼介君、もう啓介は放っといていーから」
  十四年も親子をやっていれば怪我や病気の一つや二つは
 め ずらしくもない。彼女にとっては息子の鼻血など何という事
 もなかった。
 「それより夕食遅くなってごめんね。啓介もどうせ鼻血なん
 か出すんなら、全部作っちゃってから出せばいーのにねえ」
 「…………」
  夕食の支度は母が引き継いでくれた。返すべき言葉がなく、
 啓介は無言でソファーに座りなおすしかなかった。
  そんな啓介の反応を楽しんでいる母親は、更に容赦なく言
 葉を続けた。
 「啓介、あんた最近ちょっとおかしいんじゃない? 顔色も
 赤い事が多いし……せっかくお医者さんの息子になったんだ
 し、病院で一度検査してもらったら?」
 「大丈夫だって言ってるだろーが!」
  母の一言はもちろん冗談であると啓介にはわかっていたの
 で、今度は遠慮なく言い返してやった。
  しかし涼介はそれに過剰に反応した。真顔で啓介に顔を近
 づけてきたものだから、それは啓介にとって火に油をそそぐ
 ようなものであった。
 「本当に大丈夫か? 何なら今夜一晩、お前についてようか
 ───?」
 「ほっ……ホントに大丈夫だって!!」
  冗談ではなかった。そんな事になったら間違いなく、今晩
 中に自分は出血多量であの世行きだと啓介は思った。
  涼介が心配してくれるのはそりゃもう嬉しいけれど、死ぬ
 にはまだまだ命が惜しい。
  けれど啓介の身を案じる涼介はなかなか傍から離れてくれ
 ず、啓介は嬉しさを感じるとともに、止まらない鼻血と悪戦
 苦闘し続ける羽目となった。

 
  


興奮して鼻血を出す。
そんな漫画みたいな事が現実にあるのかしら、とずーっと思っていたのですが、
なんと友人がそのような体験を……(^^;)
てな訳で心おきなく書かせてもらいました。
gさん、ありがとです
!(^^)




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