B meets B





   六月に入ったばかりのある日の夕方、いつも通り啓介は学
 校から直行で帰って来た。
  仕事のある両親、そして高校生の涼介と比べて、部活にも
 入っていない啓介はたいがい家に戻るのは一番早いことが多
 かった。
  ───が、その日は先客がいた。啓介が帰宅すると、家の
 前に一人の子供が座り込んでいた。
  それはランドセルを背負った、どう見ても小学生の女の子
 だった。
 「……どうかしたのか?」
  啓介が歩み寄って声をかけると、俯いて玄関先に座り込ん
 でいたその少女はゆっくりと顔を上げた。
  黒髪を肩まで伸ばし、大きな瞳をした、あどけない顔だち
 の可愛らしい少女だった。
  少女の視線はぼんやりとしたものであったが、啓介の顔を
 見るとなぜかその表情を曇らせた。
  それに少々の疑問を感じつつも、玄関先に座り込まれてし
 まっていては放っておく訳にもいかず、啓介はもう一度その
 少女に声をかけた。
 「俺んちに何か用があるのか?」
 「……別に」                     
  啓介の言葉に、意外にも少女は可愛らしい眉を顰めた。お
 まけに啓介としては精一杯の優しい声をだしたのに、対する
 少女の声はなぜか冷たかった。その声音は鈴を鳴らしたよう
 に可愛らしいのだが、態度がかたくななのだ。
  それに少々ムッとしながらも、啓介は重ねて聞いた。
 「こんな所に座り込んで、別にって事はねえだろ」
 「あんたに用があるわけじゃないもん」
  少女の返事は、気のせいどころではなくひど刺々しかった。
  なんだこのガキ───そう啓介が思った瞬間、啓介の背後
 からいきなり声がかけられた。
 「……緒美?」
  聞き馴れない名前をつぶやいたのは、啓介が一番好きな人
 の声だった。
  その声に啓介が振り向くと案の定、そこには涼介が立って
 いた。
  つい先日衣替えを迎え、涼介は夏の制服を着てそこに佇ん
 でいた。ほんのりと薄い水色のシャツと紺のタイ、そしてや
 はり紺のズボンのコントラストが涼介によく似合っていた。
  万人に似合うようにデザインされている制服でも、涼介が
 着るとオーダーメードの服のように見えてしまうのが不思議
 だった。
  ちなみに啓介の通う中学校でもやはり衣替えを迎えていた。
  味も素っ気もない白いシャツに黒いズボンであったが、重
 苦しい冬服を脱ぎ捨てた姿は清々しい。シャツの下の身体は
 まだまだ少年のものだが、伸びやかな新芽を連想させるよう
 にどこか力強かった。実際、成長期の啓介は今年またもシャ
 ツを新調していた。
  そんな啓介にはかけらも目をくれずに、少女は玄関先から
 立ち上がった。
 「涼兄!!」
  脱兎のごとく駆けだした少女はそう叫ぶと涼介に走り寄り、
 飛びつくように抱きついた。少女の背は涼介の胸元ぐらいま
 でしかなかったけれど、涼介は身体を屈めて少女を受け止め
 た。
  少女はもちろん、涼介の顔にも満面の笑みがあふれていて、
 それを啓介は呆然と眺めた。
 『涼兄……?』
  『涼兄』という呼び名には聞き覚えがあった。
  たしかこの家を初めて訪ねた日に涼介が、啓介に『涼介さ
 ん』ではなく呼んでほしいと言った時に、そんな呼び名を口
 にしていた。
  その呼び方で少女は涼介を呼んでいる。いったい涼介と少
 女はどういう関係なのかと啓介は訝しんだ。
  そんな啓介の傍らで、涼介と少女の二人は楽しそうに話を
 していた。
 「久しぶりだな……。どうしたんだ? 最近来なかったじゃ
 ないか」
 「だってお母さんが、涼兄のとこはいろいろ大変だろうから、
 しばらくお邪魔するのはよしなさいって言うんだもん」
  気まずそうに少女は言った。母親の言いつけを破った事が
 心苦しいのか、どこかその様子は沈みがちだった。
  そんな少女に涼介は優しく微笑んだ。
 「莫迦だな。そんなの気にする事ないのに」
  涼介の優しい言葉に、少女はパッとその表情を明るくした。
 そして嬉しそうに口を開いた。
 「でももうちょっとはたってるし、六月になったでしょ。どうしても
 涼兄の夏服姿みたくって……来ちゃったの」
 「別に、変わり映えしないだろ」
 「そんな事ない、カッコいいよ! 緒美、ずっと見たかったんだも
 ん」
  仲良く話を続ける二人の間に口を挟めず、啓介はただそれ
 を見守っていた。
  そんな啓介に気づいた涼介は、視線を啓介に向けた。
 「啓介、紹介するよ。この子は俺のいとこで……『緒美』っ
 ていうんだ。お前より三つ下の小学五年生だ。仲良くしてやっ
 てくれ」
  啓介の瞳を見つめてそう少女を紹介した涼介は、今度は視
 線を少女に下ろし、またも優しく言葉をかけた。
 「緒美。話はもう聞いていると思うけど、この子が俺の義弟
 になった『啓介』だ。もう一人兄さんが増えたと思ってくれ
 ていいからな」
  涼介に紹介されたのはいいが、どう返事をすればいいのか
 啓介はためらった。
  対する緒美は一瞬強張った表情をしたが、すぐにそれを消
 して、躊躇なく啓介にペコリとお辞儀をした。
 「緒美です。よろしくお願いしまぁす」
 「……よろしく」
  先程とは打って変わった愛想の良さに薄ら寒いものを感じ
 ながら、啓介は彼女ととりあえず挨拶を交わした。


  啓介は涼介の親戚といった人達にはまだ会ったことがなかっ
 た。涼介の父と啓介の母は入籍の時に式を挙げた訳ではない。
 二人はそのうち皆を集めて席の一つも設けようと話していた
 が、まだその予定は立てていなかった。
  ちなみに啓介と母には親戚は一人もいない。文字通り母一
 人子一人で生きてきた。
  今日に至って、初めて啓介は涼介の親戚の一人と会ったの
 だ。
  しかし、初めて会う涼介の親戚───緒美の印象は最悪だっ
 た。
  いまも三人でリビングにいるが、緒美はソファーに座った
 涼介の隣にちゃっかりと座り込んで啓介を寄せつけようとは
 しなかった。
  おまけに彼女は啓介にはわからない話ばかりをする。
 「啓介、お前は───」
 「ねえ涼兄、このあいだ緒美のうちにね、渋川のおじさまが
 来たんだよ」
 「へえ……。そういえば最近会ってなかったな」
  涼介が啓介に話しかけようとしても、緒美は一方的に会話
 を違うものへと変えてしまう。
  涼介が啓介と話をしようとするのを邪魔しようとしている
 のが見え見えで、そんな緒美の態度は啓介の苛立ちをじわじ
 わと誘っていた。
  当の涼介はそこまでは気づいていないのか、緒美に話しか
 けられる度に律儀に相手をしている。その仲の良い様子はま
 るで本当の兄妹のようだった。
  涼介が緒美を可愛がっている気持ちがひしひしと伝わって
 きて、何よりそれが啓介にはおもしろくなかった。
 「そうだ緒美。お前の好きそうな本を見つけたんで買ってお
 いたけど、持って行くか?」
 「うん」
 「啓介、ちょっと緒美の相手しててくれるか」
 「あ、……うん」
  涼介の言葉に、緒美も啓介もそれぞれ返事をした。それを
 聞いた涼介は二人に微笑んで、二階の自分の部屋へと向かっ
 た。
  しかし涼介がリビングを去ると、そこには気まずい沈黙が
 訪れた。
  啓介は緒美に何と声をかけたらいいのか図りかねた。彼女
 が自分の事を疎んじているのがバッチリと伝わってきていた
 からだ。緒美の態度にはそれを隠そうとする気配のかけらも
 ない。その証拠に緒美は明後日の方向を向いて、啓介には何
 も話しかけてはこなかった。
  涼介と一緒にいる時でさえ啓介を無視しているのだから、
 涼介がいないのでは話にもならなかった。
  相手は小学生の女の子なのだが、あまりの雰囲気の悪さに
 啓介は立ち上がった。
  空になっていた手元のコーヒーカップを手に取ると、二杯
 目を飲もうとキッチンへ向かった。
  キッチンのテーブルにはコーヒーメーカーが置いてあった。
  手際よくそのセッティングをしながら、啓介はふと涼介が
 以前いれてくれたコーヒーの事を思い出していた。
  この家で暮らし始めてから知ったのだが、この家にはきち
 んとしたコーヒーメーカーがあった。
  以前に涼介が啓介に用意してくれたのはインスタントコー
 ヒーだった。どうやら涼介はコーヒーメーカーを使った事が
 ないらしかった。自分でもあまり好んでコーヒーは飲まない
 ので、それがコーヒーをいれるための物とは知らなかったよ
 うであった。
  もっともその凄まじい味はともかく、例えインスタントで
 あろうと涼介がいれてくれたコーヒーの方が、啓介にとって
 は自分でいれるよりも何百倍、何千倍も嬉しい一杯であった。
  そんな事をつらつらと考えつつ、啓介が二杯目のコーヒー
 を注いだカップを手にリビングへ戻ると、ソファーに座った
 ままの緒美とバッチリと視線があった。
 「……何だよ」
 「…………」
  啓介の問いかけにも緒美の返事はない。ツンと顔を背けた
 のがその答えだった。
  ムッとした啓介がしかしテーブルに置かれた緒美のカップ
 の中身を見れば、それは空になっていた。
  リビングにはいれたての美味しそうなコーヒーの香りが漂
 っている。もしかして───と啓介は緒美の心情に見当をつ
 けた。
 「飲みたいのか?」
 「別に、いらないもん」
  そうは言ったが緒美の否定の言葉には妙に力がこもってい
 て、啓介はやはりそれが図星なのだと確信した。
 「飲みたきゃ勝手に飲めよ」
  コーヒーメーカーにはまだ一杯分くらいはコーヒーが残っ
 ていた。わざわざ注いでやるのは御免だったが、自分で注ぐ
 のならどうとでもすればいいと啓介は思った。だからそう言っ
 てやったのに、緒美の態度は変わらなかった。
 「あんたからなんか何も欲しくないもん」
 「……だったらさっき飲んだコーヒー返せよ!」
  あまりの緒美の口の悪さに、ついに啓介は大人げなく怒鳴っ
 た(まあもちろん中学生は大人ではないけれど)。
  ちなみに最初の一杯目を用意したのも啓介であった。緒美
 はそれにミルクと砂糖をたっぷりと入れて、けっこう美味し
 そうに飲んでいたのだ。
  そんな啓介の子供じみた言い分に、やはり子供な緒美は子
 供らしく言い返した。
 「あれは涼兄が一緒だったから、仕方なく飲んであげたんだ
 もん。好きで飲んだ訳じゃないもん」
 「何だとぉ!?」
  啓介と緒美は睨み合った。二人きりのリビングで激しい火
 花が散った。
  啓介の目つきは実は普段からあまりよくない。本人は普通
 にしているつもりなのだが、整った顔だちがどこかそう見せ
 るのか、その目つきのせいで上級生や他校の生徒に難癖つけ
 られた事も一度や二度ではなかった。
  そんな啓介が文字通り睨みつけているというのに、目の前
 の小学生の少女は少しも怯まなかった。
  啓介の険悪な視線を真正面から受け止めて、それ以上の激
 しさで睨んでくる。
  なまじ可愛らしい外見なだけに、そのギャップに啓介は驚
 いた。緒美にそれほどまでに睨まれる理由がまるでわからな
 かった。
  しばらくそうして睨み合っていたが、小学生相手にそうし
 ているのも段々と馬鹿らしくなってきた。
  しかし負けず嫌いな啓介は、決して自分から視線を外そう
 とはしなかった。
 「……何なんだよお前、さっきから」
 「…………」
  啓介の言葉に、やはり緒美は答えを返さない。
 「オイ」
 「…………」
  緒美はただ、啓介を睨んでくるだけだった。
  それでも啓介も引き下がらなかった。いくら涼介と血の繋
 がったいとこであろうとも、理不尽な態度に甘んじてはいら
 れなかった。
  焦れながらも、啓介はハッキリと言い放った。
 「言いたいことがあるならはっきり言えよ!」
 「……言ってもいいの?」
  その一言に、ようやく緒美が反応した。
  緒美が返事をした事に逆に啓介は驚いたが、ジイッと自分
 を見上げてくる視線を逸らすことなくまた見返した。
 「ああ、いいぜ。言ってみろよ」
 「じゃあ、言わせてもらうけど───」
  緒美は座っていたソファーから立ち上がり、改まって腕を
 組んだ。それでも緒美の視線は啓介を見上げなくてはならず、
 ムッとした表情をした。ちなみに啓介はまだ涼介より頭半分
 くらい背が低いが、緒美はそれよりももっと小さかった。
  いまだ差のある互いの身長差に、何を思ったのか彼女は今
 まで座っていた場所に足をのせ───ソファーの上で仁王立
 ちになった。そうすると少しだけ、緒美は啓介を見下ろす事
 になる。
  その迫力に、いったい何なんだと啓介は少々身構えた。
  緒美は啓介を睨みながら、しっかり───そしてはっきり
 と言い切った。
 「あたしは、あんたなんかが涼兄の弟だなんて、ぜーったい
 認めないからね!!」
  そう言い放つと、緒美はアッカンベーと舌を出した。
 「…………はぁ?」
  あまりにも子供じみた、しかしあまりにもキッパリとした
 物言いに、言われた啓介の方が呆気にとられてしまった。
  リビングが奇妙な沈黙に支配されてしばらくして、二階か
 ら涼介が下りてきた。
  その足音を耳にして、緒美は足取りも軽やかにぴょこんと
 ソファーから飛び下りた。
  そうして涼介がリビングに戻ってきた。
  涼介は啓介と緒美の間に流れる気まずい雰囲気にも何も気
 づく事なく、緒美の傍まで歩み寄った。そして二階から取っ
 てきた本を手渡した。
 「待たせたな、緒美。ほらこれ───」
 「わぁ、ありがとう涼兄!」
  涼介と向き合った緒美には、今まで纏っていた険悪な雰囲
 気は微塵も見られない。
  しかしその態度は、啓介の目にはひどく白々しく映った。
 なまじ可愛らしいだけあってその憎たらしさは啓介にはまる
 で小悪魔のように見えた。
  そんな緒美はすでに涼介にべったりと張りついて、啓介の
 方を見向きもしない。
  反撃の機会を逸して、啓介は歯を食いしばった。
 『こっ……こいつ───!』
  史浩の時のような勘違いではなかった。
  こいつは敵だと、啓介は思った。

 
  


啓介のライバル、緒美ちゃん登場です〜(^^)
実は緒美ちゃんを書くのは楽しくて大好きです。
そのせいかこの話では出番がたくさんあります。
ちょっと小生意気ですけど、どうぞご勘弁を。
緒美ちゃんは涼兄が大好きなだけ、ただそれだけですので〜(^^;)




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