B meets B





  「おばさま、お料理のせるお皿どれですか?」
 「じゃあ、そこの棚から青いお皿を五枚取ってくれる?」
  梅雨の晴れ間の青空が広がる日曜日、高橋家のキッチンで
 は母親が昼食の支度に勤しんでいた。
  食事の支度はいつも啓介に任せきりの母であったが、今日
 は夫が珍しく在宅という事もあり、久しぶりにその不器用な
 腕を振るっていた。
  もちろん啓介も手伝いに引っ張りだされこき使われていた
 が、今日はもう一人アシスタントがいた。
 「はい、お皿です」
 「ありがと緒美ちゃん」
  啓介の母親の隣には、なぜか緒美がいた。
  最初に現れてから緒美は三日と開けずに高橋家にやってき
 ていた。面識のなかった母親とも緒美はきちんと挨拶をし、
 やって来るたびにあれこれと家事を手伝った(啓介の手伝い
 だけは決してしなかったが)。
  そしてもともと親戚である義父はもちろん、緒美はすでに
 母親の大のお気に入りになっていた。
 「緒美ちゃんってホントにいい子ねえ。あたしもあんたみた
 いな乱暴者の男じゃなくて、あんなかわいい女の子産んでお
 けばよかったかなあ」
 「……」
 「啓兄どうしたの? 怖い顔しちゃって、どっか具合悪いの?」
 「…………」
  一見無邪気な顔で心配してくる緒美を、啓介は無視した。
 その態度の悪さに母親は啓介の頭をパシリと一つ叩いた。
 「ごめんね緒美ちゃん。この子愛想なくって……。ほら啓介、
 さっさとジャガイモの皮を剥いてよね」
 「がんばってね、啓兄」
 「………………」
  可愛く笑いながら励ましてくる緒美に、やはり啓介は返事
 などする事はできなかった。


  父親と母親、涼介と啓介、そして緒美の五人でとった昼食
 は、啓介一人が表情を曇らせているだけで、和気あいあいと
 したものだった。
 「……美味いなあ。前より料理の腕を上げたんじゃないか?」
  昼食に用意されたうちの一品、ジャガイモのスープを一口
 啜って父親は感嘆の言葉を妻へと向けた。
 「緒美ちゃんが手伝ってくれたからよ」
  こき使いまくった啓介の事はおくびにも出さずに、母親は
 緒美を褒めた(ちなみにこのスープも、味付けも含めてほと
 んど啓介が作ったものであった)。
  しかし夫の隣の席についた母親はとても嬉しそうだった。この
 ところ休日の予定がかみ合わず、夫婦すれ違いが多かったせ
 いか、久しぶりの夫と一緒の時間が何より嬉しい様子だった。
  たとえその場の話題が緒美中心になっていたとしてもだ。
 「緒美ちゃんはきっといいお嫁さんになるよ」
 「そうね。あたしが緒美ちゃんのお母さんだったら、胸を張っ
 てお嫁に出せるわね」
 「そんなぁ」
 「……………………」
  啓介は相槌など打つ事もできずに、黙々と食事をしていた。
 楽しげな会話ではあったが耳に入ってくる何から何まで、す
 べてが啓介の癇に障った。
  涼介はというとやはり黙って食事をしていた。しかし盛大
 に眉を寄せたままの啓介とは違い、その表情は穏やかだった。
  涼介はただ食卓で交わされる会話に優しい視線を向けてい
 ただけであったが、何を思ったのか父親がいきなり話をふっ
 てきた。
 「涼介、緒美ちゃんをお嫁さんにもらおうか」
 「やだぁ、おじさまったら」
  そうは言いながらも緒美はひどく嬉しそうだ。頬を赤らめ
 ながらも、隣の席に座る涼介を嬉しそうに見つめていた。
  涼介は返事こそしなかったが、それに答えるように優しく
 緒美の頭を撫でた。
  それに啓介はムッとした。
  二人きりでとる朝食の時は相向かいだが、いつも涼介の隣
 は常に啓介の席であったのだ。それが今は緒美がその位置を
 ちゃっかりと占領してしまっていた。
  座る場所をとられた啓介は仕方なく普段は開いている席に
 座り、右に緒美と涼介、左に母親と父親を眺めていた。
  もちろん啓介は涼介と結婚する事などできないけれど、な
 んとなく自分の位置を奪われたような気がした。
 「冗談じゃねーぞ……」
 「え? 啓兄、なあに?」
  ぼそっとつぶやいた啓介の苛立たしげなつぶやきを、緒美
 は耳聰く聞きつけて問うてきた。
  ふと見れば皆が───涼介までも啓介を見ていた。
 「啓介?」
 「……何でもねーよ」
  大好きなその黒い瞳が見つめてくれているのだが、なぜか
 居たたまれなくて啓介は視線を外してしまった。


  昼下がりのキッチンにて。
  母親に無理やり押しつけられた啓介と、こちらは自ら進み
 出た緒美が昼食の後片付けをしていた。
  涼介も一緒に手伝おうとはしたのだが、涼介が片付けに関
 わるとその度に茶碗なり皿なり必ず何かを壊してしまうのが
 いつもの事だった。自分以外の全員に止められた涼介は仕方
 なく、両親とともにリビングに引き込んだ。啓介としても一
 緒にいたかったけれども、犠牲になる食器の事を思うと賛成
 できはしなかった。
  何より、今は二人きりとはいかないのだ───。
 「ボーッとしてないで、あんたもさっさと手を動かしなさいよ」
 「だったらお前が洗えよ」
 「あたしはあたしで忙しいもん」
  考え事をしながら洗い物をしていた啓介の手元を目敏く覗
 き込んで、緒美はまるで小姑のように注意してきた。そう言
 う緒美はといえば、洗い物は全面的に啓介に任せきって自分
 は啓介が洗い終えた食器を布巾で拭いていた。
  緒美が啓介を呼ぶ呼び名は、今は『あんた』に変わってい
 た。そう呼ぶニュアンスもひどく刺々しい。先刻までの可愛
 らしい態度は何処へやら、ひどいギャップだった。
  涼介が『涼兄』だから、啓介は『啓兄』。
  誰かしらが一緒にいる時は緒美も啓介を『啓兄』と呼んだ
 が、啓介と二人きりの時は間違ってもそうは呼ばなかった。
  その態度だって冷たい事この上ない。
  これでもし涼介がこの場にいたら、緒美の態度は全然別の
 ものになっていただろう。
  もっともきっと緒美は涼介にべったりと張りついて、啓介
 はそれはそれでおもしろくはなかっただろうが。
 「……この二重人格女が」
 「失礼な事言わないでよ」
 「本当の事だろうが」
  お互いに文句を言いながらする片付けがはかどる訳もなく、
 だらだらと時間だけが過ぎていった。
  そうこうしている内にキッチンの入り口から母親がひょい
 と顔を出した。
 「二人ともまだかかりそう? あたしも手伝おうか」
 「だいじょぶです、おばさま」
 「平気なの? 緒美ちゃん」
 「はい!」
  様子を見に来た啓介の母に、緒美は愛想のいい返事をした。
 それは今の今まで緒美が顔に浮かべていた不機嫌さを、微塵
 も感じさせる事などできない豹変ぶりだった。
  それに母親はすっかりだまされていた。
 「じゃあよろしくね、緒美ちゃん。ほら啓介、あんたもしっ
 かり片付けなさいよ」
 「…………………………」
  緒美にはにこやかに、啓介にはしかめっ面でそう言うと、
 母親はリビングへと戻っていった。
 「ほーら、おばさまにも言われちゃって。さっさとしなさい
 よ」
 「お前こそさっさとしろよな」
 「してますもーん」
  啓介以外に人がいなくなると、緒美の態度はすぐ元に戻っ
 た。それはいっそ見事なくらいの鮮やかさだった。
 「嘘つけ。皿拭きしかしてねーじゃねーかよ」
 「だから何よ。なんか文句ある?」
  片付けを続ける内に、二人の言い争いは段々と激しいもの
 になっていった。
  そうしてついに緒美は、言ってはいけない事を口にしてし
 まった。
 「おばさまはいい人だけど、あんたなんかが弟だなんて涼兄
 も可哀相よね」
 「……いい加減にしろよな!!」
  緒美のあまりの毒舌に、ついに啓介は声を荒らげた。
  これでも相手は小学生なんだからと、ずーっとずーっと我
 慢していたのだ。しかし啓介の堪忍袋は元からそうは大きく
 なく、ついにそれは限界を越えてしまった。
 「らしいとからしくないとか何なんだよ。だったらどういう
 奴が涼介さんの弟らしいってんだよ?」
 「少なくともあんたみたいなのじゃない事は確かよ」
 「何だとぉ」
 「あんたが弟になるくらいなら、いろは坂の猿がなった方が
 よーっぽどマシよ!」
 「こっのヤロ───」
  啓介は拳をグッと握りしめた。しかし相手が男ならともか
 く、小学生の女の子にそれを振るう事はできなかった。
  せめてものかわりに、これ以上はないくらい険悪な目つき
 で啓介は緒美の事を睨んだ。
 「お前がどう思ったって、俺はもうとっくに涼介さんの弟なんだ
 よ」
 「あたしは絶対認めないもん」
  けれど緒美も少しも怯まない。
 「お前なんかに認めてもらう必要なんか、これっぽっちもね
 えんだよっ!」
  苛々と啓介は叫んだ。
 「大体何だよ『涼兄』ってのは!?」
 「何よ……。何が言いたいのよ」
  啓介の言葉に、それまで強気一点張りだった緒美が初めて
 怯んだ。たたみかけるように啓介は一気に言い放った。
 「お前、涼介さんの事好きなんだろ。だったら何で『涼兄』なん
 て呼んでんだよ?」
  啓介はとっくに気がついていた。
  緒美が頻繁に訪ねてくるのも、甲斐甲斐しく手伝いをする
 のも、皆の前でだけ啓介の事を『啓兄』と呼ぶのも、それは
 すべて涼介のため───大好きな涼介に好かれたいからだ。
  だから大好きな涼介に近づく者は、それが義理の弟でも何
 でも、緒美にとっては気に入らないのだ。
  しかし、啓介だって涼介の事は大好きなのだ。それこそた
 だの兄弟としてではないくらいに。
  そんな気持ちを込めて、啓介は緒美が何事かを口にする前
 にとにかく叫んだ。
 「もっとも涼介さんはお前なんか、ただの妹ぐらいにしか思っ
 てねえだろーけどなっ!!」
  啓介のその一言に、緒美は大きな瞳をさらに大きく見開い
 た。
  そして次の瞬間にはその瞳にじわりと涙がにじみ、あっと
 いう間にそれはポロポロと零れ落ちた。
 「だって……だって仕方ないじゃない」
  片手を目にあてた緒美であったが、とても涙を拭いきれず
 に慌てて両手で顔を覆った。
  小さな身体を俯かせたまま、緒美は涙声でつぶやいた。
 「緒美だってホントは、『涼兄』だなんて呼びたくないもん。
 でも、そう呼んだ方が涼兄がすごく喜んでくれるんだから、
 仕方ないじゃない……」
  緒美はそう言うと、肩を震わせながら泣き始めた。
  最初はざまあみろとそれを眺めていた啓介であったが、い
 つまで経っても泣き止まない緒美を見ている内に、段々とい
 たたまれなくなってきた。
  啓介は別に緒美に意地悪をしたい訳ではないのだ。泣かせ
 たい訳でもない。
  ただ涼介との事をとやかく言われたくないだけなのだ。
  キッチンを見回したが、あるのは布巾ぐらいで、緒美のた
 めになるような物は何もない。
  仕方なく緒美を残してキッチンを出ると、ハンカチを手に
 してから───啓介は再びキッチンへと戻った。
  キッチンでは緒美が未だ一人で泣き続けていた。
  啓介は緒美の目の前に立つと、持ってきたハンカチを穏や
 かとは言いがたい動作で差し出した。
 「ほら」
  緒美は涙に濡れた瞳を上げ、啓介の差し出すハンカチをチ
 ラリと見た。
 「……女の子を泣かせるなんて、あんたってやっぱ最低」
  そんな言葉を口にしながらも、緒美はそれを啓介の手から
 荒々しく受け取り、止まらない涙を拭いた。
 「お前、ほんっとに可愛くねーな」
 「あんたなんかに可愛いなんて思われたくないもん」
  啓介も緒美も、口にしたのは相変わらずの憎まれ口だった。
 けれどそれにはどこか、今までのギスギスとした雰囲気はな
 かった。
  キッチンの空気が僅かに和やかなものに変わった時、啓介
 と緒美はそこで初めてキッチンの入り口に誰かが立っている
 事に気がついた。
  二人がそちらへ目をやると───そこに立っていたのは、
 二人共通の想い人だった。
 「りょ……涼介さん!?」
 「涼兄!?」
  驚いた二人の叫び声にも慌てる事なく、涼介はじっと二人
 を見つめていた。
 「い、いつからそこに?」
 「緒美の泣き声が聞こえたと思ったら、啓介がキッチンを出
 たり入ったりするから、どうしたのかと思って」
  啓介の疑問に涼介は穏やかに答えた。しかしその言葉に、
 啓介も緒美もサーッと顔色を変えた。
 「別に、俺はこいつを泣かそうとして泣かせた訳じゃないか
 ら───」
 「あたしも別に、いつもあんな態度な訳じゃないから───」
  慌てふためく二人を気にする風もなく、涼介はただ二人の
 様子を見つめていた。
  そして次に涼介が口にしたのは、啓介と緒美からすれば勘
 違いとしか思えない言葉だった。
 「……お前たち、仲いいんだな」
 「はぁ!?」
  声を揃えて驚いた啓介と緒美であったが、涼介の言葉は更
 に二人を驚かせた。
 「まるで本当の兄妹みたいだ」
 「やめてよ、涼兄!!」
 「涼介さん!!」
  微笑む涼介に、啓介と緒美の叫びの本当の意味は理解され
 ていないようだった。
  けれどそれがどこか寂しそうにも見えて、啓介は一瞬目を
 凝らした。しかし緒美に縋りつかれた涼介はすぐにその表情
 を変えてしまったので、気のせいかと思い直した。
  どうすれば涼介にわかってもらえるのか───きっとセン
 ター試験よりも司法試験よりも難しい問題に、啓介は頭を悩
 ませた。

 
  







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