Bitter & Sweet



   上州名物の寒風が吹き荒ぶ、一年で一番寒さが厳しい如月。
   今日は二月十四日、いわゆるバレンタインデー。日本中の女性たちが、多かれ少なかれ
  盛り上がる日である。
   そしてここ高橋家でも、ちょっとした騒ぎが起こっていた。
  「アニキィ」
  「うるさい」
   二階の涼介の部屋で、兄弟二人の日常。涼介はパソコンに向かい、啓介はベッドに座る
  といういつも通りの定位置。
   しかし、交わされる会話はいつも通りではなかった。
  「なあアニキ、チョコくれよ」
  「嫌だ」
  「冷てぇー。俺のこと愛してないのかよ」
  「…………」
  「何でそこで黙り込むんだよ」
   涼介の態度は明らかに不機嫌なものなのに、それでも啓介は諦めようとはしなかった。
  背中を向け続ける涼介に、なおも食い下がる。
  「なあ、一個だけでいいからさ」
  「数の問題じゃない」
   一週間ほど前から繰り返されてきた不毛な会話だった。その間、涼介は啓介の頼みを断
  りつづけてきた。
   常日頃から涼介が否の返事をすると、大概の相手はそれで諦めて、自分の我を通そうと
  はしなかった。生来の美貌がより冷やかに感じさせるのか、拒絶されれば臆してそれ以上
  踏み込んでくる者はほとんどなかった。
   けれど、啓介の反応だけは他とは違っていた。
   涼介がどれだけ嫌だと言っても、自分の望みは決して諦めようとしないのだ。
   それこそ涼介が呆れるほどに───。
  「だいたいバレンタインデーにチョコなんて、製菓会社の販売戦略だろう」
  「俺が欲しいんだからいーじゃん」
  「ダメだ」
  「何でダメなんだよ」
  「それは俺がお前に聞きたい」
   ようやく涼介は、背後の啓介に向き直った。
   ちなみに今日、啓介が部屋にやってきてから一時間半経っている。その間、啓介はチョ
  コが欲しいとねだりまくり、涼介はきっぱりそれを拒否し続けていた状態だった。
  「何で俺がお前にチョコを贈らなければいけないんだ?」
  「だって恋人同士のバレンタインデーに、チョコは必要不可欠なもんだろ」
  「───」
   涼介が振り向いてくれた嬉しさに、つい饒舌になった啓介であったが、それは涼介の沈
  黙を買っただけだった。
  「アニキ?」
  「……誰と誰が恋人同士だって?」
  「俺とアニキ」
  「…………その前に、俺とお前は兄弟だろうが」
  「でも恋人でもあるじゃん」
  「…………」
   キッパリと言い切る啓介に、涼介は軽い眩暈を起こしそうになった。
   去年まではこんな騒ぎも起こらなかった。よく知らない女達から届いた山ほどのチョコ
  の処分に頭を抱えるのが、二人共通の毎年恒例の悩み事だった。
   特に涼介は甘い物が好きではなく、いとこの緒美から贈られたチョコを食べるだけだっ
  た。バレンタインデーなどどちらかといえば鬱陶しいだけなのに、その上に啓介から無理
  難題を言われて、涼介はとにかく早くこの一日が過ぎてほしいと思っていた。
   それもこれも、二人の関係に変化があったから。
   ただの兄弟ではなくなってしまったから───なのではあるが。
  「なあ、どーしてもダメ?」
  「買わなくてももう、チョコなら3ヶ月分はあるだろう。俺の分もやるぞ」
   それは事実で、啓介は山ほどのチョコを抱えて大学から帰ってきていた。涼介も同じだっ
  た。その他にも郵便や宅急便で届いたチョコが沢山あり、二人がもらった分をあわせれば、
  一日一枚食べたとしても数ヶ月は困らないほどの量があった。
  「俺はアニキからのチョコが欲しいのっ!」
  「…………」
   涼介の提案をキッパリ退ける啓介だった。
  「プレゼントってのは自発的なものだろう。そんな強要してもらったチョコに意味がある
  のか?」
  「アニキからのチョコってだけでもう、俺にはこれ以上ないくらいの意味があるぜ」
  「俺には何の意味もない」
   涼介の毒舌にも、啓介は怯まない。伊達に二十一年間、一緒にいた訳ではないのだ。
  「なあ、ちゃんとホワイトデーにお返しもするからさ」
  「……大体何で、俺がチョコを贈らなけりゃいけないんだ」
  「え」
   切れ長の瞳をさらに細めた涼介が席を立ち、ベッドの啓介の前に立った。その冷たい視
  線は、なまじ美貌の持ち主なだけにひどく鋭いものに感じられた。
  「ア……アニキ?」
  「そんなに俺からの贈り物が欲しけりゃ、お前が俺にチョコをよこせ」
  「えええぇ!?」
   思いがけぬ涼介の言葉に、啓介は心底驚いた。
  「そしたらホワイトデーにちゃんとお返しをしてやる」
  「ヤダぜそんなの」
  「何が嫌なんだ」
  「だってホワイトデーならチョコじゃねーじゃん。キャンディとかマシュマロだろ」
   細かいところにこだわる啓介だった。
  「安心しろ。ちゃんとチョコにしてやる」
  「でも嫌だ!」
  「何でだ?」
  「バレンタインデーにチョコだから意味があるんだろ!」
  「……そうなのか?」
   その辺のこだわりが涼介にはいまいち理解できなかった。
  「だいたいアニキは俺からのチョコが欲しいと思ってんのかよっ!」
   切羽詰まった啓介が自棄になって叫んだが、それは非常に的を突いた言葉だった。
   涼介自身、啓介からチョコがほしいと思っている訳ではない。でも啓介に欲しがられて
  いるからといって、素直にチョコを渡す気にはどうしてもなれなかった。
   啓介はもちろん涼介だって男なのだから、バレンタインデーにチョコを贈られる事はあっ
  ても、贈る事とは無縁なはずだ。
   そんなの関係ないと啓介は言うが、だったらチョコを渡すのが啓介であってもいいはず
  だ。
  「つまりお前は俺への気持ちを、チョコにして俺に渡す気はないんだな」
   我ながら白々しい台詞だと思いながら、涼介は追求の手は緩めなかった。対する啓介は
  少々旗色が悪くなりつつあった。
  「そ、そりゃアニキは大好きだよ。でもアニキは甘い物好きじゃねーじゃん!」
  「お前からのチョコだったら、我慢して食べるさ」
  「我慢って何だよ!」
   兄弟二人の妙な押し問答は、いつまで経っても終わりが見えなかった。


   そして、二月十四日の夜───。
   あと数時間で日付が変わろうかという時刻、かろうじて群馬県内にあるとあるコンビニ
  の駐車場に、二台の車が入ってきた。
   白のFCと黄のFD───二台のRX−7。
   エンジン音を響かせて入ってきた二台に、駐車場に座り込んでいた若者たちの視線は釘
  付けになった。そしてその注目は、ドライバーを見てさらに強いものになった。
   車から降りてきたドライバーは、タイプこそ違えどそれぞれ人目を引くいい男だった。
  「なんでこんな遠くまでこなきゃいけねーんだよ」
   FDから降り立った啓介は、ブツブツと文句をこぼしていた。
   高崎の自宅を出てから一時間弱。FCの後につき、何軒ものコンビニやスーパーの前を
  通り過ぎ、いったいどこまで走るのかと思った末にようやく立ち寄った店だった。
  「もっと近くでだってよかったんじゃねーの」
  「そういう訳にはいかないだろ」
   やはりFCから降り立った涼介の答えは冷たかった。
   ただでさえ毎年この日は、ちょっと外出しただけで見知らぬ女がわらわらと寄ってくる
  のだ。買い物だけでも気が重いのに、そんな面倒まで抱え込みたくはなかった。
  「嫌なら俺は帰るぞ」
  「あ、嘘だって嘘!」
   冗談でなくFCのドアに手をかける涼介を車から引き剥がし、啓介はコンビニの入り口
  に涼介を促した。
  「まだ売ってるかなあ」
  「ない方が俺は有り難い」
  「ダーメ。そしたら他の店に行くまでだ」
   どちらがバレンタインデー、ホワイトデーに贈り物をするかという言い争いは、啓介も
  涼介も互いに譲らず───結局バレンタインデーにお互いがチョコを買う事で決着した。
   決着したはいいが、それからがまた大変だった。
   涼介としてはネットで注文して、家に届くようにしたかったのだ。もしくは財布ごと預
  けるから、啓介が欲しいチョコを何でも幾つでも買ってこいと。
   けれど啓介がどうしても涼介が直接買ったのが欲しいと言い張るから、こんな所までやっ
  て来る羽目になってしまった───。
  「お前……本当に諦めが悪いな」
  「根性があるって言ってくれ」
   半ば啓介が涼介の背中を押すように、二人はコンビニに入った。
  「あ、あった!」
   お目当てのチョコはすぐに見つかった。入ってすぐのレジの前、バレンタインチョコの
  特設コーナーは、撤去されていなかった。
   棚に空いたスペースは半分ほど。まだまだそれなりの数のチョコレートが売られていた。
  「よかったー。まだけっこうあるな」
   喜々とした様子の啓介は足早に近づくと、早速チョコを選びにかかった。そんな啓介と
  は対照的に涼介は足取り重く、とりあえす啓介の横に立っただけだった。
  「アニキ、どれがいい?」
   啓介が指し示すチョコは、色とりどりの包装紙で綺麗にラッピングされていた。商品見
  本もあったが、どれもこれも甘ったるそうで───涼介は思わず眉をひそめてしまった。
  「…………」
  「なあ、どれだよ」
   啓介に催促された涼介は無言で、チョコの棚のすぐ近くにある菓子コーナーに足を向け
  た。慌てて啓介も後を追ったが、涼介はその前に立ったまま、しばらく棚を見つめ続けた。
   そして───。
  「アニキ?」
  「これでいい」
   涼介が手に取ったのは、ただの板チョコだった。色気も甘さもあまりない、ビターチョコ。
  「そんなのかよ」
  「チョコはそんなに好きじゃない」
   何が不満なのか啓介は気に入らないようだが、涼介にはこれで充分すぎるほどだった。
  いっそのことコーヒーのように、チョコにもまったく甘味のないブラックがあればなお良
  いのだが。
  「お前も同じのでいいな」
   言いながら涼介は目の前の棚の、ビターチョコの隣に並べてある板状のミルクチョコに
  手を伸ばした。甘い物が好きな啓介の嗜好を思っての選択だった。
   しかし啓介はそんな涼介の選択をあっさり却下した。
  「俺はあっちのがいい」
   啓介は特設コーナーに戻ると、並んでいるチョコを選びにかかった。しかし涼介は、赤
  やピンクのリボンで賑々しく飾りたてられたその一角に近づくのは気が重かった。
   常から周囲の視線を集めてしまう事があったが、このコンビニに入ってからも二人は注
  目の的だった。コンビニの店員も、コンビニにやってきた客も、中でも女性たちの視線を
  集めていた。
   しかし啓介はそんな周囲の視線など、気にもしていないらしい。ある意味、羨ましいぐ
  らい図太い神経だ。普段は涼介も周囲など気にしないが、あいにく物事を客観的に見る目
  も持ち合わせていた。
   複雑な心境で、涼介は啓介の隣に立った。
  「で、どれだって?」
  「んーと……お、これ! これがいい!」
   啓介が手に取ったのは、今時女でもこんなのを買うのかと疑ってしまう、直径十五セン
  チほどハート形のチョコだった。
  「……お前、俺にこれを買えと?」
  「いーじゃん。俺、これがいい」
  「悪趣味だぞ」
  「ハート形で、いかにもバレンタインって感じじゃん!」
  「…………」
   だから嫌なんだと思ったが、そんな気持ちまでは啓介には通じないようだった。
   喜びに満ちあふれた、嬉しそうな、上機嫌な啓介。弟の幸せそうな顔を見るのは涼介も
  嬉しいが、今日ばかりはなんだかだんだん腹が立ってきた。
   嫌なことは早く済ませるに限る。涼介は上機嫌な啓介の手からチョコを取り、自分の持っ
  ていた板チョコを啓介に手渡した。
  「さっさと買って帰るぞ」
  「そーだな。早く帰って一緒食べよーぜ」
  「俺はいい。気が向いた時に食べる」
  「じゃあさ、代わりに俺の熱〜いホットチョコでも飲む?……な〜んてな」
   上機嫌な啓介の軽口と同時に、なぜか涼介の手の中でバキンという音がした。
  「……いま変な音しなかった?」
  「気のせいだろう」
  「そうかなあ……」
   首を傾げる啓介を尻目に、涼介はそのチョコをレジへ差し出した。
   店員のちょっと驚いた、でも平静を装った態度にもうんざりだ。二月十四日に男がチョ
  コを買っていく───それはちょっと驚くだろう。涼介自身でさえ、こんな物を買う羽目
  になるとは思っていなかったのだから。
   さっさと支払いを済ませたい涼介だったが、思いがけぬ横やりが入った。それはレジに
  立つコンビニの店員からだった。
  「……お客さま、こちらの商品なんですが、破損していますが」
   確かにレジに置かれたチョコは包装紙が破けていた。
   けれど涼介は驚かず、ただにっこりと微笑んだ。逆にレジの店員が真っ赤になって慌て
  ふためいた。
  「それでいいです」
  「あの、でも、中身も割れていると思いますが……」
  「それが、いいんです」
  「はあ……」
   店員は釈然としない様子だったが、涼介に重ねて言われて、とりあえずは納得したよう
  だった。
   しかし背後の弟は納得しなかった。
  「えー、何で割れてんだよ!?」
  「うるさい」
   真っ二つに折れていようがチョコはチョコだ。嫌とは言わせない。
   文句を言う啓介には構わず涼介は支払いを済ませると、さっさと歩きだした。チョコは
  レジの上に置かれたままだった。
  「お客さま、商品を───」
  「お前が持ってこい」
  「俺!?」
   振り返って店員ではなく啓介に一瞥をくれて、涼介はさっさとコンビニから出た。
  「アニキ?」
   残された啓介は板チョコを買わなければならず、すぐに後を追う訳にもいかなかったの
  で、仕方なくハート形のチョコを袋ごと受け取った。
   その間も涼介は待ってはくれず、さっさとFCに乗り込んでしまった。
  「ちょっと待てよ、アニキ!」
   支払いを済ませて啓介が慌ててコンビニを飛び出したが、時すでに遅かった。呼び止め
  る声にも構わず、FCは駐車場から走り出してしまった。
   後には呆然とする啓介が一人取り残された。
  「な……なに怒ってんだよ───!?」
   遠ざかるFCのエンジン音と、啓介の叫び声。
   その二つがそれぞれ、バレンタインデーの夜空に響きわたった───。

                                  


以前に発行したバレンタイン本から再録です。
少しだけセリフを変更したんですが、恥ずかしくてパソコンの前で一人で笑ってしまいました。
隣の部屋では弟が寝てるっていうのに……。
ごめん、弟……(−−;)




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