けいすけ物語・6


   その日、高橋家は朝から大騒ぎだった。
  「おとなしくしろっ!」
  「ワンワン!」
   ドタドタ、トタトタ、バタバタ、パタパタ───。
   一階のリビングでは、人間と子犬の足音が騒がしく交錯していた。
   そこへ涼介が顔を出した。
  「……なんだ、まだ用意できてないのか?」
  「こいつがおとなしくキャリーに入んねーんだよっ!」
   息を切らしながら啓介が叫んだ。
   追われていたけいすけは、リビングの真ん中で涼介に向かって尻尾をふるふると振った。
  「そういえばお前、遠足の時も修学旅行の時も直前までドタバタしてたっけな……」
  「今回はアニキのせいだろっ」
   事の発端は昨日、涼介がいきなりけいすけを動物病院へ連れていくと言いだした事にあった。
   多忙な涼介に用意を言いつかった啓介は、とりあえず犬用のキャリーを買ってきた。
   把手のついた持ち運びのできるゲージで、旅行用にも使えるという触れ込みだ。
   なのに肝心のけいすけはキャリーに入ろうとはしなかった。
   事を荒立てないように、最初は優しくキャリーを見せた啓介だったが、けいすけはクンクン
  と軽く匂いを嗅いだかと思うと、すぐにそっぽを向いてしまった。
   キャリーの中にドッグフードを置いてみたりおもちゃを用意したのだが、それでも知らんぷ
  り。
   最終手段として力づくでキャリーに放り込もうとしたのだが、けいすけは部屋中を逃げ回り、
  啓介の手に捕まらなかった。
   やれやれと涼介はため息をつくと、リビングの床に片膝をついて両手を広げた。
  「けいすけ、おいで」
  「キュ〜ン」
   タタタタッと足取りも軽やかにけいすけは涼介の腕の中に飛び込んできた。
   涼介はけいすけを抱き上げると、啓介に持たせたキャリーの前に立った。
  「ほら、けいすけ。お前のキャリーだぞ」
  「アン!」
   返事もよろしく、けいすけはするりとキャリーの入り口を潜った。先ほどまでに大暴れが嘘
  のような素直さだった。
   しかし先ほどまでにけいすけの様子を知らない涼介は、ひどく感心した。
  「聞き分けいいじゃないか。けいすけは頭がいいんだな」
  「……この猫かぶり野郎」
  「何言ってんだ、けいすけは犬だろ」
  「…………」
   それ以上毒づくのを、啓介は心の中でする事にした。


   動物病院には啓介のFDで一緒に出かけた。
   けいすけの入ったキャリーは涼介が膝にのせ、FDの助手席に乗り込んだ。
  「安全運転で行けよ。けいすけがいるんだからな」
  「わかってるよ」
   ロータリーエンジン音を響かせて、けれど普段より幾分ゆっくりとFDは発進した。
   いつも涼介が隣に乗ると少なからず緊張する啓介だったが、今日の緊張感はまた特別だった。
   峠を攻める時と同じくらい───いや、それ以上に緊張した。
   しばらく走って、赤信号でFDを停車させて啓介は口を開いた。
  「どう?」
  「……落ちついてる。大丈夫みたいだな」
   けいすけは少しだけ身体を固くしていたが、騒ぐでもなくキャリーの底に座り込んでおとな
  しくしていた。
   動物病院は家から車で約20分。
   しかし車を走らせながら、そこへ行く意味が啓介にはいま一つ分からなかった。
   まさか昨日の夜泣きのせいだろうか。
   けれど環境の変わった子犬にはよくある事だというし、病院に行って夜泣きが治まるとも思
  えない。
   いっそ治してもらえれば、今後またいいとこを邪魔される心配はなくなるのだが。
  「アニキ、なんでいきなり病院なんて言いだしたんだ?」
  「……ちょっとな」
   涼介はそれ以上は何も語らず、啓介は疑問を残しながらも口を噤んで運転に集中した。


   動物病院は一見して人間の病院と変わりはなかった。クリーム色の外観と無機質なデザイン
  は、看板に「動物」とさえなければまるっきり普通の病院と同じだった。
   玄関の扉を開けて待合室へ入ると、意外にも人は少なかった。
   啓介と涼介の他には二組だけ。それぞれ患者───もとい患畜を連れており、一人は猫、も
  う一人はハムスターをそれぞれ大事そうに抱えていた。
   けれど漂う雰囲気は紛れもなく病院のもので、微妙な緊張感と薬品の臭いが漂っていた。
  「先に座ってろ。受付してくる」
  「あ、うん……」
   涼介に促され、啓介は先にソファーへと座った。けいすけを入れたキャリーは座ったソファ
  ーのすぐ隣に静かに降ろした。
   病院の息子とはいえ必ずしも病院に慣れている訳ではない。
   医者を目指している涼介はともかく啓介は大の病院嫌いで、どうにも落ちつかなかった。
   キャリーの中を覗き込めば、けいすけも落ちつかないのかキャリーの中をちょこちょこと動
  き回っていた。
   しばらくして涼介がやってきた。
   啓介の隣、間にキャリーを挟むようにしてソファーに座った。
  「思ったより空いてるな。この分なら早く診てもらえそうだ」
  「ふーん……」
   そのまま二人は静かに順番を待った。
   けいすけは不安そうに、キャリーの中から隣に座った涼介を見上げてきた。
   涼介は微笑んで、キャリーの金網越しにけいすけの毛並みを指先で撫でてやった。
  「なあアニキ……、こいつどっか悪いの?」
   別に心配している訳ではないが、なんとなく気になった啓介は涼介に聞いてみた。
   涼介は視線をけいすけから啓介に向けた。
  「それを今日調べてもらうのさ。健康診断だ」
  「えー、何でいきなり?」
   そこで受付から女性の声がした。
  「高橋さーん、高橋けいすけさーん」
  「あ、はい」
   名前を呼ばれて、啓介は反射的に腰を上げた。
   そのまま診察室に一人向かおうとした啓介を、涼介が慌てて呼び止めた。
  「啓介、お前じゃない」
  「あー、そっか。俺じゃないんだっけ」
  「……お前はここで待ってろ。俺が一人で連れていく」
  「…………」
   キャリーごとけいすけを連れて、涼介は診察室へと消えた。
   それを見送って啓介は再びソファーへ腰を降ろした。
   涼介が何を考えて啓介を置いていったか分かっていた。
   医者の前で今のような失態を演じるのを心配したのだろう。
   けれどこっちは二十年以上その名前で呼ばれて生きてきたのだ。咄嗟に返事をしてしまって
  も仕方ないではないか。
   不貞腐れた気分で、啓介はソファーに踏ん反り返った。
   しかししばらくそうしていて、すぐに飽きてしまった。
   何もせずにただ待つのは性に合わなかった。
   待合室の片隅の本棚にあった雑誌に手を伸ばしかけたが、あるのは女性週刊誌ばかり。
   外で煙草でも一服してくるかと思いつき、啓介は玄関から外へ出た。
   病院横の駐車場では、FDが静かに啓介を待っていた。その黄色い車体に背中を預け、啓介
  は上着の内ポケットから煙草とライターを取り出して一服した。
   それにしてもまさか兄が病院まで付き添ってくるとは思わなかった。てっきり啓介一人に任
  せるのだろうと思っていた。
   最近は峠に走りに行けない事もしばしばなのに───そんなにあの犬が可愛いのだろうか。
   そう思ったら何だか苛々してきた。
   短くなった煙草を踏み消し、もう一本吸うかと手を伸ばしかけた時───。
  「キャウウウウゥン───!!」
   けいすけの鳴き声が、病院の外まで響きわたった。


  「健康診断じゃなかったの?」
  「健康診断プラス予防接種だ」
   待合室に戻り、空のキャリーを膝に乗せながら啓介は尋ねた。
   けいすけは涼介の膝の上で、キューンと小さく鳴きながら震えていた。
   ちなみに啓介も注射は大嫌いだった。
  「なんの注射?」
  「狂犬病だ」
  「狂犬病?」
  「名前くらいはお前も知ってるだろう? 怖い病気なんだぞ」
   けいすけの頭に手で触れながら、涼介は言葉を続けた。
  「狂犬病は日本では根絶している。けいすけも大丈夫だとは思うが、最近はペットブームで輸
  入された犬も増えているからな。万が一……っていう不安がある」
  「へえ……」
   そんな事はまったく知らなかった啓介は、ただただ感心した。
   けいすけはよほど注射が痛かったのか、まだ小さく震えていた。
   けいすけの小さな身体を抱き上げた涼介は、白い指でその背中を優しくなでた。
  「よしよし、よく頑張ったな」
  「キュゥーン……」
   抱っこされて撫でられて、しゅんとしていたけいすけは少しずつ安らいだ表情になっていっ
  た。
   こんな小さな小犬にも、ちゃんと喜怒哀楽があるのだから不思議だった。
  「これで啓介も、噛まれても安心だな」
  「え?」
  「昨日、けいすけに噛まれてたろ。あれを見て思いついたんだ。予防注射をしておこうってな」
  「俺のため……?」
   突然に思えた涼介の行動が、自分のためだったなんて───……。
   感動しかけた啓介であったが、すぐに大いなる矛盾に気がついた。
   噛まれる事が前提なんて───嬉しくない。
  「それよりアニキ、こいつをちゃんと躾けてくれよっ」
  「けいすけは充分いい子じゃないか」
  「ワン!」
  「それはアニキの前でだけなんだってばっ!」
   涼介の腕の中で愛らしく尻尾をふるけいすけの前では、啓介の真実の叫びも虚しく響くだけ
  だった。
                




  久しぶりの更新になってしまいましたが、相変わらずの二人と一匹でした。




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