けいすけ物語・

   高橋家ではその朝も、兄弟二人と犬一匹の朝食が始まっていた。
   とはいえキッチンでテーブルに向かっているのは人間だけで、犬のけいすけはキッチンの隣
  のリビングの床の上に置かれた皿に顔を突っ込んでドッグフードを食べていた。
  「アニキ、今日の帰りは?」
  「そうだな……。たぶん七時頃になると思う」
  「じゃあ夕食は待ってるから」
  「ああ、もしも遅くなりそうな時は連絡するから」
   トーストに目玉焼き、サラダにコーヒーというしごく簡単な朝食。
   しかし啓介が多忙な涼介と顔をあわせるためには、こんな朝の一時も貴重な時間だった。
   食事を終え、コーヒーを飲んでいた涼介がリビングに目をやった。
   すると、いつの間にやらけいすけの姿がなかった。
  「……けいすけ?」
  「なに?」
  「お前じゃない。犬のけいすけだ」
  「…………」
   やっぱり同じ名前は紛らわしい。
   コーヒーを一口飲みながら啓介はそう思った。
   涼介は立ち上がると隣のリビングを覗いてみた。
   見ればキッチンからは死角になっている、ソファーの向こう側にけいすけの姿はあった。
   リビングのガラス戸の前の床に、ちょこんと座っていた。
  「けいすけ?」
   涼介が呼んでもけいすけは振り向かない。
   いつもなら喜んで尻尾を振りながら走り寄ってくるのに、微動だもしない。
   けいすけの黒い瞳は一心にガラス戸の外を見つめていた。
  「どしたのアニキ?」
  「いや……、けいすけが───」
  「?」
   啓介も涼介の後に続き、兄弟は二人はけいすけの元に歩み寄った。
   それでもけいすけの様子はおとなしく、普段のやんちゃぶりが嘘のようなおとなしさだった。
  「具合悪ィのかな?」
  「でも食欲はあるみたいだぞ」
   言われて啓介がけいすけの食器皿を見ると、先程山盛りに与えたドックフードは綺麗になく
  なっていた。
  「窓の外に何かあるのか?」
   啓介、そして涼介もけいすけに習うように外を見た。
   しかしそこには見慣れた庭と、そして頭上には青空が広がっているだけだった。
   涼介が膝をつき指で頭を撫でると、けいすけはキューンと小さく鳴いた。
   鼻も乾いていないし体調が悪いようには見えないが、普段に比べると多少元気がないように
  も見えた。
   そんな様子を見ていた啓介は、ふとある事を思いついた。
  「……もしかして散歩にでも行きたいのかな」
  「そうなのか?」
  「わかんねーけどなんとなく。犬ってメシと散歩が大好きって、どっかで聞いた事あるような
  ないような───」
   説得力があるようなないような啓介の言葉だった。
   半信半疑ながらも涼介はそっとけいすけに問いかけてみた。
  「けいすけ、散歩に行くか?」
  「……ワン!」
   けいすけは嬉しそうにふるりと巻き尾を振った。心なしか表情も生き生きとしてきた。体調
  が悪かった訳ではないらしい。
   正に啓介の読みは的中だった訳だ。
  「そうか。じゃあ行こう」
   安堵した涼介はけいすけの傍らから立ち上がった。
   しかしそれには啓介が驚いた。
  「アニキ、今から散歩に行くのか?」
  「ああ」
  「だってもう大学行かなきゃだろ」
  「まだ時間はある」
  「でもまだ首輪もリードも買ってないぜ。どーすんだよ?」
  「そんなものがなくても散歩はできる」
  「……?」
   意図が掴めず首を捻る啓介を尻目に、涼介はけいすけを連れて玄関へと向かった。


  「……それが、散歩?」
  「獣医の先生の許可が下りるまではな」
   なんという事はない、涼介のいう「散歩」とはけいすけを抱っこして涼介が庭を歩く事だっ
  た。
   それでもけいすけは嬉しいらしい。涼介の腕のなかに小さな身体を預け、尻尾だけパタパタ
  と振っていた。
   一緒に庭に出た啓介はそんな様子をおとなしく見ていたが、その表情は段々曇ってきた。
   嬉しそうなけいすけとは正反対の表情だった。
  「……なんかずるいよな」
  「何が」
  「何って───」
   まさかそいつだけ抱っこするなんてずるい、とはさすがに言えない。
   言葉に詰まる啓介をしばらく見つめていた涼介は、いきなりけいすけを差し出した。
  「ほら」
  「何?」
  「お前も抱っこしたいんだろ」
  「ちが、……そうじゃなくてっ」
   言い訳する間もなく、啓介の腕にけいすけは預けられた。
   渋々ながら小さなけいすけの身体を抱えなおした。
   するとけいすけはジタバタと動きだした。先程までのおとなしさが嘘のようだった。余程居
  心地が悪いらしい。
  「この……うわっ!」
   啓介の肩に前足をかけたけいすけは、腕の中からするりと抜け出し啓介の頭によじ登った。
   そして啓介の頭を足場にしてジャンプ!
   けいすけの小さな身体は、無事に涼介の腕に戻った。
  「てめえっ!!」
   しかし足場にされた啓介はさすがに怒鳴った。
   蹴りつけられた頭は痛むし、綺麗にセットした髪は乱れてしまった。
   けいすけを抱えなおしながら、さすがの涼介も啓介を気遣った。
  「大丈夫か?」
  「大丈夫じゃねーよっ!」
   無造作そうな髪形に見えて、啓介は髪のセットには毎朝時間をかけているのだ。
   当のけいすけは涼介の腕の中に戻れて、ご機嫌な様子だった。
  「このバカ犬!」
  「そう怒るなよ」
   苦笑しながら、涼介は怒る弟の髪を手櫛で直してやった。
  「せっかくの色男が台無しだな」
  「う…………」
   文句を続けようとした啓介であったが、兄の手が気持ちいいのでしばらく黙ってそのままで
  いる事にした。
   二人と一匹の穏やかなひととき。
   啓介は髪に触れている兄の手を握ろうと、そっと手を伸ばした。
   しかしその手を掴む前に、涼介の言葉が幸せな時間を敢えなく終わらせた。
  「けいすけもリードで外に出たならこんな事もないだろうし」
  「?」
  「散歩頼むぞ、啓介」
   唐突な言葉に、啓介だけでなくけいすけも驚いた。
  「なんで俺が!」
  「ワン!」
   叫ぶ一人と一匹に、涼介はにこやかに言い聞かせた。
  「だってけいすけはお前が拾って───」
  「はいはいはい、俺が拾ってきた犬だよっ!!」
   何かというとそれだ。
   半ば自棄になりながら、啓介は叫んだ。
   けいすけはそれでもまだ納得がいかないようで、涼介の胸に顔をうずめてキューンと小さく
  鳴き続けていた。




         小説のページに戻る            インデックスに戻る