Missing
窓のカーテンの隙間から、夕暮れの光が細く差し込むホテルの一室───。
シーツの上に、汗ばんだ気だるい身体を横たえようとした涼介を、啓介が止めた。
散々もう熱い時を過ごしたというのに、啓介は体を繋げたまま離れなかった。
「……け……いす、け。離れろ……」
「──────」
「……啓、介」
涼介は震えてしまいそうになる声をなんとか制して名前を呼んだが、啓介からの返事は
なかった。
まさか寝てしまったのかと肩を押そうとすると、逆に腕が縋りついてきた。
「啓介……?」
啓介は顔を上げない。涼介の肩に顔を埋めたまま、離れるのは嫌だとばかりに涼介を抱
きしめてくる。
それを止めずに、背中に手をまわして抱きしめ返した。
落ちつくようにしばらく背中を撫でていると、ようやく啓介は身体を離した。
「っ、……!」
重い下肢が、それでも啓介が離れていく感触に震えた。声がもれそうになるのを、涼介
は唇を噛んで耐えた。
意識と身体を静めようとしてベッドに身体を横たえ直す。
と、涼介は再び啓介に抱きしめられた。
繋がってこそはいないが身体を重ね、涼介の身体に腕をまわしてぎゅうっと、力を込め
てきた。
「……アニキだ」
ため息のような声で、感慨深く啓介はささやいた。
「夢じゃない。本物のアニキだ───」
すり、と涼介の頬に頬を寄せた。
涼介はもう拒まず、啓介の好きにさせながらそれを享受した。
啓介は抱きしめた腕の中の存在を、全身で感じようとしていた。
啓介が海外のF3にドライバーとして参加して、もうすぐ一年になろうとしていた。
自分の力には自信があった。しかし訪れた世界は、世界中から実力のある若者が集まる
場所だった。
激しい競り合い。駆け引き。マシントラブル───それでも必死で走った。
そしてシーズンを終えた時、周囲は一年目にしては上出来だと褒めてくれた。けれどそ
れは啓介の望む結果はではなかった。
……兄の事は、忘れた日はなかった。
いつもどうしているのだろうかと気になった。
けれど電話もメールも、連絡は一切しなかった。一度連絡してしまったが最後、すぐに
でも帰りたくなってしまう自分をわかっていたから。
兄からの連絡もあまりなかった。
時差を考慮してか、時々メールが届くだけ。
それに兄も、医者として忙しい日々を送っているのだろうとはわかっていた。
けれど、心はいつでも帰りたいと思っていた。
兄弟として生まれて一緒に育って、距離も時間も、こんなに離れた事はなかった。
それがいけないのかと、自分自身を鼓舞するために優勝するまで日本には帰らないと決
めた。
だからオフシーズンに入っても日本には帰らず、ホームステイ先の家へととどまった。
なのに気分は晴れず、ただ無為な日々を過ごしていた。
そんな折の、突然の来訪だった。
兄が目の前に立った時、啓介は咄嗟に現実だとは思えなかった。
「なんで、アニキ来たの……?」
「お前のせいだろ」
疑問を投げかけると、掠れた声で返事かあった。
「連絡はないし、オフになっても帰ってこない───。仕方がないから俺が訪ねて来たん
じゃないか」
咎めるような表情で涼介は啓介を見た。キツい眼差し。
そんな表情も恐ろしいほど綺麗だった。
「大変だったんだぞ、一週間の休暇をとるのは」
「ごめん……」
謝りながら、啓介は涼介の唇に口づけた。
「会いたかった」
深く重ね、舌を探り───息継ぎの合間につぶやいた。
「会いたかったよ、アニキ」
それこそ啓介の偽らざる心情だった。
ずっと会いたかった。それこそこの異国の地に来たその日から。
かけがえのない人。この世にたった一人の、兄で、恋人で───大切な人。
その美しさも損なわれるどころか、少しも変わっていない。
白皙の美貌、切れ長の眼差し、触れれば震える肌も身体も、啓介の記憶通り───それ
どころかより一層、その美貌は極まったようにも思えた。
会ってしまえば、よくぞ一年も離れていられたなと思う。
こうして身体を寄せ合い、触れている今でさえ、これが現実なのか啓介には信じきれな
かった。
ようやく唇を離し、啓介は涼介の胸元に顔を埋めた。
しかしその肌に、雫がポタリと零れた。
「お前……泣いてるのか?」
「泣いてねーよ───」
けれど答える啓介の声は涙が滲んでいた。
「あんまり、嬉しすぎてさ……」
嬉しすぎて、心が勝手に戸惑って、今にも泣きだしてしまいそうだった。
「いろんな事、あったから」
涼介は啓介の髪をその指で梳きながら、無言で啓介の言葉を聞いていた。
睦言めいたそれを聞いていると───冷えきっていた心が温まっていくようだった。
啓介は寂しかったという。それは本当の事だと思う。
けれど、涼介も辛かった。
啓介は未知の世界に飛び込んで、きっと様々な苦労があっただろう。
しかし、それはさぞかし刺激のある毎日だったろう───。
涼介にとってはそれまでの日常から啓介がいなくなったのだ。
啓介が家を離れる事はそれが当然なのだとわかっていた。けれど忙しい日々の中で、そ
れでも喪失感は拭えなかった。
啓介からは連絡は一切なく、仕方なくF3での結果は自分で調べた。
それでも啓介が頑張っているのだという事は、涼介にも伝わってきた。
けれどオフシーズンになっても、啓介が帰ってくる様子は一向になかった。
業を煮やした涼介は自分から動いた。
啓介のホームステイ先に連絡をとり、予定を調べ───そしてまとまった休暇をとるた
めに勤務を増やした。
手に入れた休暇は一週間と短いものだったけれど、医者の身としてはそれが精一杯だっ
た。
そして涼介は日本を離れた。
もしかして啓介には今はもう別の、誰か優しい恋人でもできたのかと一抹の不安を抱え
ながら───……。
その杞憂は、啓介と再会して霧散した。
突然の来訪に、啓介はそれは驚いていた。
しかし会った次の瞬間、抱きしめられた。
その痛いほど力強い抱擁に、涼介は啓介の気持ちに変わりがない事を知った。
そして啓介のホームステイ先の家にではなく、涼介の滞在先のホテルに、半ば連れ込ま
れる形で落ち着いた。
平たく言えば、ベッドの上で───。
その腕は今も、涼介を離すまいと背中に回されていた。
記憶にあるより力強さを増した腕。厚みを増した胸板。逞しくなった身体。
けれど、涼介に触れてくる熱さは変わらない。
その優しさも、身体に押し入ってくる傍若無人な傲慢さも、情熱も───。
向けられるそのすべてが久しぶりで、涼介は戸惑っていた。
熱くて、痛くて、そして強すぎる刺激で───……。
もっと平然と向かいあえると思っていたのに、予想外だった。
だからそれを打ち消すように、今までは言わなかった言葉を涼介は口にした。
「……俺の方が、辛かったよ」
涼介の言葉に、啓介はその胸から顔を上げた。
その表情は不服そうだった。
「俺だって辛かったぜ」
啓介の言い分に、涼介の表情も曇った。
「それは俺の台詞だ」
「だから、俺だってそうだって」
しばらく二人でそう言い合って───そしてどちらからともなく苦笑した。
辛いのは同じ。
離れる痛みは、どちらも同じ───。
そして同じなのは、辛さだけではない。
「俺は……、俺も」
それこそが涼介の本当の気持ちだった。
繰り返し啓介から告げられた、ここまでやって来た理由。
「──────よ」
啓介の耳元にそう告げた次の瞬間、涼介は自分の身に何が起きたかわからなかった。
身構える間もなく、昂った啓介自身が押し当てられていた。
「啓介!」
涼介の静止の声を無視して、啓介は身体を進めた。
「けい───!!」
少しの苦痛と、それ以外の感覚が涼介を襲った。
先刻、啓介の放ったものが残っていて、それが涼介を助けた。たまらなかった。
「あ、……───っ」
「……アニキ」
すべてを収めきって、啓介も短く息をついた。
そして涼介が落ち着くのを待たずに、啓介は動いた。
「……っ!」
いきなり揺すられて、その律動に涼介は息をつめた。
「啓、介……!」
「止まんねえよ」
散々高まった後なのに、二人の身体には簡単に火がついた。
それこそが離れていた時間の証明のように。
お互いがお互いに飢えきっていた。
「好き……」
涼介の唇に、首筋に、胸の色づきに触れながら、啓介は繰り返しつぶやいた。
「大好き」
「ん、……っ」
涼介は何も言えなかった。口を開けばあられもない声を上げてしまいそうだった。
けれど、応えるように啓介の肩に手を回した。
それに喜んだ啓介はいっそう動きを激しくして、涼介を翻弄した。
「けい……っ!」
「ずっと、こうしてたい」
一週間後の別離を考えると、今すぐにでも泣いてしまいそうだった。
「アニキと一緒に、いたい」
「……もう、やめろ」
嘆く弟に、涼介は自分から口づけた。
「そんなのは、後で、いいだろ───」
嘆く時間は幾らでも後に待っている。
その時にはきっと身を切られるような想いをするだろうけれど、今はこうして傍にいる
のだから。
快楽を貪るというよりも、お互いを確かめあうようなSEX。
溶け合い、ぬくもりを感じ合い、熱を与え合い───離れていた距離と時間を埋めるた
めに寄り添い合う。
だから今だけは、少しでも傍に。
ずっと、ずっとずっと。
会いたかったよ───。
〈END〉
うわーん。
オフ本もとっくに完売し、サイトに再録しようとした今ごろになって誤字発見。
内容も恥ずかしいけど、それが恥ずかしいです(><)