シアワセになりたい・2



   その夜も、涼介は遅くまで机に向かって勉強していた。
   来年は高校受験を控えていた。涼介の成績なら志望校への合格は教師からも太鼓判を押
  されていたが、学んで知識を増やすのは楽しかった。
   両親は今夜も帰りが遅く、二つ年下の弟はとっくに眠りについていた。家の中は静まり
  かえり、物音一つしなかった。
   ───と、隣の部屋からドカッという物音とともに、ギャアという叫び声が聞こえた。
  「啓介?」
   隣は弟の啓介の部屋だ。
   何かあったんだろうか。
   涼介は勉強の手を休めて席を立った。
   自室を出て弟の部屋のドアをノックした。けれど中からは何の反応もない。
  「啓介……?」
   ドアを開けると部屋の中は真っ暗だった。
   啓介の姿は見えなかったが、微かな唸り声だけが聞こえてきた。
   涼介はドアの横の壁に手を伸ばし、室内灯のスイッチを入れた。
   すぐに天井の電灯はついた。明るい部屋の中、見れば啓介はベッドの上にいた。
  「どうしたんだ?」
  「足ぶつけた……」
   啓介はベッドの上に座り込み、右足の向こう脛を両手で押さえながら涙目で訴えてきた。
  「大丈夫か?」
   涼介は啓介の元まで歩み寄ると、ベッドに腰を下ろした。
   そして啓介の足を摩ってやった。
   啓介はおとなしく、涼介が摩ってくれるに任せていた。
   しばらくそうして、啓介の目から涙の後が消えた頃、涼介は口を開いた。
  「何にぶつけたんだ」
  「……壁」
  「壁?」
  「うん」
   こっくりと頷く啓介に、涼介は首を傾げた。
  「お前、何で壁なんか蹴ったんだ?」
  「気がついたら蹴ってたんだもん」
  「……?」
   ますます訳が分からない。
   首をかしげる涼介に、啓介はそうなるに至った顛末を話してくれた。
  「サッカーの夢見ててさぁ───」
   夢の中で啓介は、サッカーをしていたのだそうだ。
   目の前にパスされたサッカーボールを蹴ったのに───現実には啓介の足は壁を蹴って
  いたのだった。
  「……そんなので蹴るか?」
  「仕方ないだろ、寝てたんだからっ」
   涼介が呆れるには理由があった。
   啓介は昔から寝相が悪かった。夜、枕に頭を乗せて眠ったと思ったら、朝起きたら枕に
  足を乗せていた事もあったほどだ。
   反対に涼介は寝相が良すぎるほど良かった。夜、眠りについた体勢そのままで朝起きる
  事がほとんどだ。
   兄弟で正反対の寝相に、母親はよく可笑しそうな顔をしていたものだった。
  「気をつけろよ」
  「だって、寝てる間に気をつけるなんて無理だよ」
   それは確かにそうだ。
  「せめて夢を見なけりゃいいんだろうけどな」
   そうすればそんな、壁を蹴るほど身体を動かす事もないだろうに。
  「……ねえ」
   苦笑する涼介に、啓介はベッドの上でそっと近づいた。
  「兄ちゃんも一緒に寝ない?」
  「はあ?」
  「そしたら夢なんか見ないでぐっすり眠れると思うんだけどなぁ」
  「どういう理由だ」
   啓介が小学生になってから、一緒に眠るのは極力避けていた。
   そうでなければいつまでも啓介は涼介と一緒に寝たがるので、啓介のためにもよくない
  と思ったからだった。
  「……ダメ?」
   啓介はちょっと不安そうに涼介を見上げてきた。その小犬のような瞳を見ていると、無
  下に突っぱねるのがひどく悪いような気がしてきた。
  「……仕方ないな」
  「ホント!?」
  「今日だけだぞ」
  「やったぁ!!」
   大喜びの啓介が、ギュッと涼介に飛びついてきた。
  「電気、消すからな」
  「うん!」
   部屋の灯を消して涼介が啓介の布団に入ると、すぐに啓介がペタリと張りついてきた。
  「こら」
  「いーじゃんか。だって久しぶりだし」
   確かに、こうして二人で一緒に眠るのは、去年台風が来た時以来だった。
   今まで啓介が眠っていたせいで、布団は充分あたたかい。それ以上に啓介はとてもあた
  たかかった。
  「兄ちゃんおやすみ」
  「おやすみ」
   あたたかさに包まれながら、二人はすぐに眠りについた。


   それから十数年が経って───。
   高橋家では未だに兄弟二人で眠っていた。
   もちろん毎日ではない。おまけに『寝る』意味がかなり違うようになったのも確かだっ
  た。
   涼介は自分のベッドに横になりながら、隣で眠る弟に目をやった。
   電灯を小さく灯しただけの暗い部屋でも、吐息が触れるほど近くならばその様子はしっ
  かりと把握できた。
   啓介は半ば涼介を抱きしめながら、安心しきった様子で眠っていた。
   このところ涼介の大学生活が忙しくすれ違いが多かったが、今夜は久しぶりに顔をあわ
  せる事ができた。啓介はひどく喜んだが───なぜか顔よりも身体をあわせる事になって
  しまった。
   そのせいでいろんなものが解消されたのか、啓介の寝顔はひどく安らかだった。涼介の
  肩に左腕をまわしたまま、隣で横向きになってすやすやと眠っていた。
   その表情は幼い時と少しも変わらないのに───。
   まさか兄弟でこんな関係を結ぶとは夢にも思っていなかった。
   そんな事を考えていたら、先程までの情事を思い返してしまいそうになって、涼介は慌
  てて頭を振った。
  「…………重い」
   伸ばされた啓介の腕から抜け出そうともしたが、思い直してそのままでいた。
   変わってしまったものもあれば、そうではないものもある。
   そのぬくもりだけは昔のまま、少しも変わらない。
   夜着を着て、それから啓介を部屋に戻さないと───そう思いながら、涼介も啓介の眠
  りに誘われるまま瞼を閉じた。


   かたや啓介は───夢を見ていた。
   夜の赤城山を愛車のFDで下る夢だった。
   ストレートから最初のコーナーにFDの車体を滑らせた。
   走り慣れたホームコースだ。ハンドリング、ギアチェンジ、そしてヒール・アンド・トゥ
  ───考える間もなく自然に手足が動いた。
   高低差のある低速コーナーを一気に走り抜けると、FDはそのまま中盤の中速コーナー
  へと向かった。
   見る間にコーナーが迫ってくる。啓介はまた左手をステアリングに手を伸ばした。
   ───と。
  「……いい加減にしろ!!」
  「うわ!?」
   FDの車内に怒鳴り声が響いた。
   そして車をぶつけた訳でもないのに、激しい衝撃が啓介の身体に伝わってきた───。


   突然の怒声と衝撃で、啓介は目覚めた。
   しかしいきなり目覚めさせられたせいで、現実と夢の区別がついていない。
   ベッドの上に起き上がり、しばし目を瞬かせていた。
  「…………?」
   どうやら頬を平手打ちされたらしい。左頬がひどく痛んだ。
   間近からひどく痛い視線が伝わってきた。啓介は恐る恐る横を見た。
  「…………アニキ?」
   普段さっさと服を着込んでしまう涼介だったが、今夜は珍しく啓介と同じく裸のままだっ
  た。
   しかしそれ以上に以外なのは涼介の表情だった。普段ポーカーフェイスの涼介には珍し
  く、それはもう滅多にないくらい顔を真っ赤にしていた。
  「アニキ、どーしたの?」
  「どうかしたのか、だと……?」
   啓介は涼介を心配して声をかけた。しかし涼介は啓介を思いっきり睨み付けてきた。
   涼介は本気で怒っていた。
   二十数年間兄弟をやっていて、今までケンカもしたし怒られもした。
   しかしここまで───ここまで激しく怒る涼介を、啓介は見た事がなかった。
  「さっきあれだけしといて、性懲りもなくまた手を伸ばしてきやがって」
  「え?」
  「人が眠っているのをいい事に、好き勝手できるとでも思ったのか」
  「ちょ、ちょっと待てよ!」
   一方的に啓介を責める涼介を、啓介は必死で押しとどめた。
  「何なんだよさっきから。さっぱり訳わかんねーよ。せっかくいい気分で寝てたのに、ひっ
  ぱたいて起こすなんてさぁ」
  「寝てただと? 嘘をつくな!」
  「嘘じゃねーってば!」
   それはもうぐっすりと、安らかに眠っていたのだ。
   涼介は冷たい眼差しで啓介を睨み続けたが、啓介は頑として言い張った。
  「──────」
   その様子に涼介も眉をしかめた。
   基本的に啓介は涼介に嘘をつける性格ではないのだ。
   良くも悪くも真っ正直というか───。
   啓介の性格と言い分、そして現在の状況を考えあわせ───ある一つの仮定が涼介の脳
  裏に浮かんだ。
  「…………お前、何か夢を見てたか?」
  「は?」
  「何の夢を見ていたんだ?」
  「なんだよいきなり。それと俺をひっぱたいたのと何の関係が───」
   いきなり詰問してきた涼介に、啓介はまたも戸惑った。
   しかし涼介は構わず、まるで脅すように啓介に詰め寄ってきた。
  「いいから答えろ。何の夢を見ていたんだ」
   普段から一種の迫力のある涼介だが、今はまた一段と凄味があった。
   背筋に一瞬寒いものが走った啓介は、わずかに上半身をのけぞらせながら先程までの夢
  の内容を必死で思い返した。
  「え……えっとぉ、……FDで赤城の下りを攻めてる夢、だったよーな……」
  「──────……」
  「途中で起こされたけど、中盤ぐらいまでは走ったかなあ。前にアニキに教わったあの右
  コーナーを、2速にシフトダウンして走った覚えがあるし……」
  「……出ていけ───」
  「え?」
   しばらく無言で啓介の話を聞いていた涼介だったが、いきなり口を開いたかと思うと、
  声にしたのはひどく冷たい内容だった。
  「今すぐ出ていけ」
  「なっ、何だよいきなり! 俺がいったい何したって言うんだよ。んな怒られるような事
  してねーだろ!」
   さすがの啓介も反発した。
   せっかく久しぶりに一緒に過ごせるのに、涼介の言う事はあまりに横暴だった。
   抵抗しようとしたが、啓介よりも涼介の意志の方が遙かに勝っていた。今夜の涼介には
  とにかく迫力があった。
  「いいから出ていけ!!」
  「うわ!」
   布団を一枚投げ与えられて、数時間前に脱ぎ捨てた服と一緒に、啓介は部屋の外へ強引
  に追い出されてしまった。
  「…………何なんだよ、アニキは」
   いきなり叩き起こされ、あげく追い出される理由も知らされず───。
   啓介は頭から布団をかぶり、涼介の部屋のドアの前にしゃがみこんだ。
   残った涼介はといえば、腹立たしさと恥ずかしさに耐えながら、一人ふて寝を決め込ん
  でいた。



                                            〈END〉



かわいいちょっとした妄想だと思うんですけど……(^^;)>
細かい描写はあえて避けたので、いろいろお好きに想像してみてください。
ちなみにサッカーの夢見て壁を蹴飛ばしたのは、私の実体験です。



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