Wish
深夜、涼介と啓介の母親は我が家に一週間ぶりの帰宅を果たした。
まだ夜は明けてはいないが、もう少しで日の出を迎えるだろう。天気予報では今日も暑
い一日になりそうだった。
本当は日付が変わる前に帰ってくる予定だったのだが、高橋クリニックの入院患者の容
態が急変して、急遽治療に駆り出された。
ようやく容態が安定したので帰ってこれた。
女医として体力には自信があったが、さすがに疲れ果てていた。
シャワーは病院で浴びてきたから、帰ったらすぐにベッドに直行しよう。
帰ると連絡はしていたから、家政婦がベッドメイクもきちんとしてくれているだろう。
タクシーの後部座席で揺られながら、彼女は脳裏にふかふかの布団を思い浮かべていた
───。
自宅前でタクシーを降りた。
深夜だというのに二階の長男の部屋は明かりが付いていた。カーテン越しに煌々とした
光が見えた。
「涼介ったら、まだ起きているのね……」
長男の涼介はもう何年も前から車に夢中で、そのために山へ出かけるのはもちろん、家
にいても何かしらやる事があるらしく、夜遅くまで起きているのが常だった。
医学部での勉強も怠ってはいないようだが、正直よくそれだけのパワーと体力があるも
のかとわが子ながら呆れ……いや、感心していた。
次男の啓介は、一時期は反発して家にも寄りつかないような状態だったが、ここ数年で
落ちついてきたようだった。
涼介と同じく車に夢中になっているらしい。
昔から啓介の事は涼介に任せてきたから、きっと大丈夫だろう───。
そんな事をぼんやりと考えながら門と玄関の扉を開け、彼女は久しぶりの帰宅を果たし
た。
家の中は真っ暗だった。明かりがついているのは涼介の部屋だけで、とりあえず廊下の
明かりをつけた。
眩しい光が久しぶりの我が家を照らしだしていた。
「ああ、疲れたわ……」
彼女は安堵のため息をついた。
そしてそのままベッドに直行するつもりだった。
その時ふと、彼女の耳に妙な音が届いた。
バタバタとした荒い足音。深夜にはちょっと常識外れな音だった。
それは二階から聞こえてきた。
「こんな夜中に涼介ったら、何やってんのかしら……」
とにかく眠気が勝ったので、注意するのは朝になって顔をあわせてからにしようと決め
て、彼女は自分の部屋に向かおうとした。
なのにドタッと、またまた大きな物音がした。
思わず一階の天井を見上げた。
すると物音だけでも迷惑なのに、言い争うような声までも聞こえてきた。
涼介だけではなく啓介も起きているのだろうか。
しばらく足を止めて二階の物音に耳を傾けていたが、言い争う声はやみそうにない。
仕方なく彼女は二階へ続く階段の所まで行き、息子たちへ声をかけた。
「涼介啓介、何してるの?」
途端に、声がやんだ。
「まだ寝ないの? お母さんこれから一寝入りするから、静かにしてちょうだいね」
返事はなかったが、二階はようやく静かになった。家中がシーンと静まり返った。
安心した彼女は自分の部屋へと向かった。
その時二階で何が起こっているかなど、まったく想像せずに───。
「……どけよ」
「嫌だ」
涼介はベッドの側面に背をつけながら床に座り込んでいた。正確にいえば座り込まされ
ていた。
そして啓介はといえば涼介の手首をそれぞれ掴み、半ばのしかかるような体勢で床に膝
をついていた。
二人とも息が荒い。
「母さんが帰ってきたんだぞ」
「でもヤダ」
どちらも譲らず、見つめあう───というよりは睨みあっていた。
普段は整頓された涼介の部屋だが、今は床には涼介の持つ資料が一面に散らばり、パソ
コンを乗せた机は定位置からずれ、椅子はなぜか部屋の隅に転がっていた。
それもこれも、なんとか涼介を捕まえようとする啓介と、啓介を部屋から追い出そうと
した涼介の攻防戦の結果だった。
今夜の、プロジェクトDの茨城での初めてのバトル。
今までで一番の強敵だった。その対戦相手に啓介と拓海はよく戦った。
長く熱いバトルを終え、帰路についたのは日付が変わってからだった。
帰り道の車の中で仮眠をとっていた涼介は、家に着いてすぐバトルのデータをまとめよ
うと思っていた。
いつも通りに真っ先に自室のパソコンに向かったのだが、なぜか啓介も一緒に部屋にやっ
てきた。妙に思い詰めたような表情で。
疲れただろうに、早く休めばいいと勧めたのに、啓介は部屋に帰らなかった。
そして───……。
「いきなり、どうしたんだお前は……」
「いきなりじゃねーよ」
そして啓介はいきなり涼介を抱きしめて、キスしてきたのだ。
突然のそれを涼介は避けられなかった。
「ずっとアニキが好きだった。言うつもりはなかったけど……」
「───」
真摯な、本気の告白だった。
しかし涼介は返事ができなかった。だって突然弟に告白されて、何をどう答えればいい
のか。
そんな涼介の態度に焦れるように、啓介は掴んでいた涼介の手首をギュッと強く握り直
した。はね除けようとする涼介の腕を、とにかく遮二無二押さえ込んだ。
「俺。気がついたんだ」
「……何をだ?」
「アニキを特別に想ってんのは、俺だけじゃないって事」
今回のバトルで、ダブルエースである啓介と藤原は初めて民宿へと泊まった。今までは
それぞれの車中で一夜を明かしていたのだが、泊まれる場所が見つかったのだ。
おかげでゆっくり眠り、万全の体調でバトルに臨む事ができたのだが───。
民宿での一泊を告げられた時、最初は啓介も藤原も自分たちだけではと固辞した。
藤原などは自分の代わりに涼介が泊まってくれと言いだした。
「あれで俺、気がついたんだ……」
藤原が言った一言。
何ということはない一言だったけど、一つ分かった。
「藤原にとってもアニキは特別なんだってこと」
「なに、言ってるんだ……?」
啓介の言葉に、涼介はとても頷く事はできなかった。
「藤原がお前みたいに、こんな事を考えてた訳じゃないだろう」
「分かってるよ。分かってっけど───」
涼介が『特別』だという意味では同じだった。
レッドサンズ───そしてプロジェクトDの活動を始めて、それに関わっているメンバ
ーたちにとって涼介は常に特別な存在だった。
同じチームだけでなく、時にはバトル相手の走り屋にも多大な影響を与えてきた。
ギャラリーの女たちにももちろんだったが、中には同性でも邪な想いを寄せてくる者な
どがいて、啓介はそういった輩を涼介には内緒でシメた事も何度かあった。
それでも自分の気持ちは告げずに、ずっとこのまま兄弟でいようと思っていたのだけれ
ど───。
「俺にとってアニキは特別だけど、それだけじゃダメなんだ」
今のままじゃ他の奴らと同じ、ただ涼介と兄弟というだけ。
「アニキの特別にならないと意味がないんだって気がついたんだ」
「…………」
涼介の身体からは、いつしか力が抜けていた。
恐る恐る手を離しても、今度は啓介は突き飛ばされなかった。
「俺のものになって」
そして、もう一度抱きしめた。
「俺をアニキの特別にして」
我が儘はたくさん言った。たくさん甘えて、それを涼介はたくさんきいてくれた。
「いっそ憎まれてもいいから、アニキの特別になりたいんだ」
もしかしたら初めての───それは心からの願いだった。
結局その夜、涼介の部屋から啓介は帰らなかった。
しかし何を許された訳でもなく───ただ今晩は一緒のベッドに眠る事を許可されただ
けだった。
窓の外はそろそろ白み始めていた。
涼介が隣をそっと伺うと、啓介が涼介の肩に顔を埋めるようにして眠っていた。
眉を顰めて、その表情は少し苦しそうだ。
正直、母親が帰ってきてくれて助かった。
でなければどうなっていたか分からなかった。
それは啓介に、という意味だけではなく───。
「……莫迦だな、お前は」
啓介なんか、もうとっくに特別だ。
ずっとずっと以前から、この弟は涼介の『特別』だった。
突然すぎてどう答えればいいのか分からなかったけれど───……。
どう切り出そうか。どんな言葉で告げればいいのか。
もっとも涼介が間をおこうとしても、啓介の方からすぐに切り出してきそうだけれど。
そんな事をあれこれ考えながら、涼介は眠る啓介の額にそっとキスを一つ落とした。
〈END〉
この話は04年3月に出したコピー誌からの再録です。
あらためて読み直すと、私にしてはかなり甘い感じで書いていますね(^^;)
小説のページに戻る インデックスに戻る