ニ分割兄弟綺談・1



   高崎市内、深夜───。
   普段は交通量の多い国道も、そろそろ日付が変わろうという時刻ともなるとさすがに車の台数が減って
  いた。そこを一台の車が走っていた。道が空いているにもかかわらず制限速度を守り、ひたすら慎重な走
  りをする一台。
   それは高橋家のベンツだった。その後部座席には人影が二つ。
   ベンツの後部座席にそろって座っているのは高崎で一番有名な兄弟。いや、もしかしたら群馬で一番有
  名な兄弟かもしれない───高橋兄弟だった。
   運転席の後ろに座っているのは兄の涼介だ。
   切れ長の瞳をゆるく閉じ、整った顔だちをわずかに上気させていた。静かに両腕を組み、酒を飲んだせ
  いかどこか気だるげにその身体をシートに預けていた。
   その隣、助手席の後ろに座っているのが弟の啓介だった。
   キツイ顔だち、茶髪を立たせた髪形は、一見ヤンキーそのものだ。長身の身体はもう涼介ともほとんど
  差はない。
   兄弟のどちらも、申し分のない美形だった。
   その啓介はしっかりと涼介の隣に座っていた。隣、というにはあまりにも至近距離だったが。
  「……離れろ、啓介」
  「いやだ」
  「離れろと言ってるだろ」
  「何だよ、冷てーの」
   肩に懐き、ともすれば抱きついてこようとする啓介を押し退けながら、涼介は嫌そうに言葉でも態度で
  でも拒否していた。
   しかし当の啓介は全然懲りずに、怒られても押し退けられても涼介に擦り寄っていた。
   二人の乗るベンツの運転手はそんな後部座席の会話を意識して無視しながら、うんざりした気分で運転
  していた。
   ベンツのハンドルを握るのは涼介の友人である史浩だった。幾分緊張した面持ちで運転しながら、史浩
  浩の心には寒風が吹いていた。
   いくらどちらも見目良いといっても、大学生の男二人が(一方的なものとはいえ)ひっついている姿と
  いうのは、そう拝みたいものではない。
   今夜は飲み会だった。涼介がリーダーの走り屋チーム、赤城レッドサンズ。その一軍と車のメンテナン
  スをするサポート隊の面々で飲んだのだ。
   赤城山をホームコースとするレッドサンズはお遊びの走り屋チームではない。普段はそんなお祭り事は
  まったくない。リーダーの涼介がそういったものをまったく不必要だと考えているからだ。
   しかし啓介を始めとするお祭り好きの数人の強硬な根回し、そして年末が近いという事もあり、珍しく
  も飲み会と相成ったのだ。
   酒を飲む以上は自分で運転はできない。なにより店の駐車場がそこまで広くない。代行を頼むか、タク
  シーを呼ぶか、何人かで乗り合わせていくかということになり、涼介と啓介と史浩の三人は乗り合わせて
  行くことにした。
   しかし涼介のFCも啓介のFDも、史浩の車も男三人が乗るにはかなり無理があった───結果、史浩
  が高橋家のベンツを運転しているのはそういう訳だった。
   飲み会がお開きになってメンバーは解散。飲まなかった史浩が必然的にベンツの運転手をする事になっ
  た。心配事があって、今夜はとても飲む気になれなかったからだ。
   史浩だけは知っていた。世間はもちろん、高橋家の両親も知らない秘密を───。
   高橋家の兄弟はただの兄弟というだけでなく、あろうことか恋人同志でもあった。
   そんな二人が酒を飲んで、万が一にもそれがばれやしないか───史浩はそれが心配で、下戸でもな
  いのに今夜は飲む事をやめたのだ。最初、涼介はタクシーかもしくは代行を頼もうと言ったのだが、自分
  が運転するからと史浩が言い張ったのだった。
   人間、酒が入るとどうなるかわからない。タクシーや代行の運転手に、有らぬものを見せてしまわない
  用心であった。
   現に、普段からスキンシップの激しい兄弟だったが、酒の入った今はまた一段とベタベタとしていた。
   ……というか、ベタベタしているのは一方的に啓介の方だった。
   涼介は視線が少し座っているだけで、平静な態度は普段と変わらなかった。しかし啓介は笑い上戸でか
  つ騒ぎ上戸、おまけにスキンシップが大好きらしかった。
   何しろ普段から涼介にひっついて離れようとしない奴だ。
   涼介と史浩から厳重に注意され、飲み会の間中ずっとへばりつくのを我慢していた啓介は、車に乗り込
  んだのをこれ幸いに涼介にへばりついていた。ちなみに、ベンツの助手席に乗り込もうとした涼介を後部
  座席に押し込んだのものも啓介だった。
  「……なんか眠くなってきた」
  「寝ろよ。着いたら起こしてやる」
   寝ればさすがにおとなしくなるだろうと涼介は勧めた。実際いまも啓介は、隙あれば涼介の身体のあち
  こちに触れてこようとしていて、その手を払うのでかなりの労力を要していた。大した量は飲んでないが
  やはり身体はどこか気だるかったし、何より多大な気力を注がなければならなかった。
   しかしその疲れを更に倍増させるような事を啓介は言いだした。
  「じゃあ、膝枕して」
  「嫌だ」
  「何でだよぉ」
  「理由も何もあるか。俺の膝はお前の枕じゃない」
   そう言う涼介は、心の底から嫌そうな顔をしていた。
   しかし啓介にはまったく堪えた様子はない。酔っているせいなのか。実際涼介の口調も飲んだ酒のせい
  か、普段より幾分冷徹さを欠いていた。
  「だって誰も見てねーじゃん」
   啓介の言いぐさに、ベンツのハンドルを握る史浩の手元がわずかにぶれた。その微細な動きに、ベンツ
  の車体がグラリとふらついた。
  「史浩」
  「わ、悪い」
  「いちいち啓介の言う事に反応するな」
  「お、おう」
  「そうだ史浩。人の話を聞いてんじゃねーよ」
   お前が聞かせてるんだろーが! と、史浩は心の中で叫んだ。
   そんな史浩の気持ちを察したのか同じだったのか、涼介は啓介の頭をコツンと小突いた。
  「いてっ」
  「この車は誰が運転していると思っている?」
   そうだ涼介、もっと言ってやれ! と、先程から当てられっぱなしの史浩はもう一度心の中で叫んだ。
   しかし啓介はそんな事ぐらいではめげなかった。
  「だから、運転してるんだから後ろなんか見れないだろ。だからいいだろ」
  「また妙な理屈を……」
   幾分呆れながら、それでも涼介は承諾する気にはなれなかった。そういった事を人前でする趣味は涼介
  にはまったく、これっぽっちもなかった。
  「それでも何でも俺は御免だ。寝るならシートに懐いて寝るんだな」
  「アニキのケチ!!」
  「何とでも言え」
   そのつれなさに啓介は肩を落としてうなだれた。
  「…………じゃあさあ、ちょっとだけ」
  「?」
   少しは懲りたのか力なくつぶやく啓介の言葉に、涼介はつい耳を傾けてしまった。しかし実際に啓介が
  落ち込んだのは、ほんの数秒だったらしい───。
  「チュウしていい?」
   そんな事は二人きりの時にしろ!
   史浩の心の声が通じたのか───たぶん通じてはいないだろう。
   それでもその声が通じたように、涼介の返事は冷たかった。
  「却下。絶対に嫌だ」
  「なんでだよー。いいじゃんか。舌入れないからさ」
   だから、俺の存在を忘れるなぁ〜!!
   史浩の心の声をかき消すような勢いで、涼介は音がするほど啓介の頭を殴った。
  「いってーよ!!」
  「当然だ。それ相応に力を込めたからな」
  「じゃあ一瞬だけ。一瞬だけでいいからさ」
   それでも啓介はまだ諦めようとしてはいなかった。ある意味感嘆すべき精神力だった。
   しかしその前に、史浩の神経が焼き切れそうだった。
   もう一秒でもこの兄弟と狭い空間に一緒にいるのは耐えがたい。
   史浩の車はこのベンツの身代わりのように、高橋家のガレージに置いてあった。さっさと二人を送り届
  けて、家に帰ろうと史浩はアクセルを踏みこんだ。
   再び涼介に拳を振り上げられて、よほど痛かったのか啓介もようやくおとなしくなった。
   それを確認して、涼介もほんの少し肩の力を抜いた。
   今のうちにと史浩は帰り道をひたすら急いだ。
   国道から市道に入り、またしばらく走り───ベンツは閑静な住宅地へとやってきた。
   あともう少しで高橋家に到着するという所まで来て、史浩はベンツの走行速度を落とした。
   しかしそこで、おとなしくなった筈の啓介が実力行使にでた。
  「啓す───!」
   涼介を抱き寄せて、キスしようとしたのだ。
   避けようとする涼介。それでも啓介は涼介の唇を追いかけた。
  「い……い加減にしろっ!!」
   さすがに怒った涼介は啓介の肩を押し返し、運転席へと叩きつけた。
   ドスッというものすごい音がした。
  「うわっ!!」
   いきなりの衝撃に驚いた史浩は、車の操作を誤った。峠でも侵した事のない痛恨のミスだった。
   ブレーキと間違えてアクセルを踏み込んでしまったのだ。
   目の前には電信柱。それが何故か電信柱の方から迫ってくるように見えるから不思議だった。


   注意一秒怪我一生───。
   しかしその瞬間、史浩の脳裏に浮かんだのはベンツの修理代の見積り金額だった。
   アクセルを踏んでしまったとはいえ元々スピード自体は大して出ていなかったし、そんな事になるとは
  夢にも思っていなかった。
   まさにベンツの修理代などふっとぶ、恐ろしい事態だった。