ニ分割兄弟綺談・15



   目覚めた時───そこは知らない場所だった。白い天井と壁の、殺風景な部屋。
   俺はベッドに寝かされ、数人の知らない人間たちに囲まれていた。
   心配そうに見つめてくる複数のまなざし。
   しかし、その中の誰一人として俺は知らなかった。
   そこで初めて思い当たる。
   ……あろう事か、俺は自分自身の名前さえ思い出せなかった。
   ふと気づけば隣に、自分と同じようにベッドに寝かされていた者がもう一人いた。
   その男は───何故だか俺を睨んでいた。


   俺の名前は「高橋涼介」といった。そう教えられた。
   俺は交通事故に遭って、記憶を失ってしまっていた。親で、医者だという中年の男女二人が、俺を診察
  してそう診断を下した。
   そして隣のベッドの男の名前は「啓介」といった。
   周囲から教えられた。彼はお前の弟だと。
   けれど覚えていない。自分に関する記憶も親に関する記憶もないのだから、もちろん弟の記憶もなかっ
  た。
   向こうも俺と同じ記憶喪失で、俺の事も含めて一切合切覚えていないようだった。
   俺と弟は、友人の運転する車に乗っている時、事故にあったらしい。
   なにも一緒に記憶をなくす事はないだろうと俺も思うのだが───。
   この弟が、俺は苦手だった。
   兄弟という事で同じ病室に入れられていたのだが、一緒にいても気まずいだけ。話す事も何もなかった。
   当たり前と言えば当たり前だ。「兄弟」だと周囲に教えられても、そんな記憶は一つもないのだから。
   両親や、友人だという史浩、見舞客たちといった誰か第三者がいれば少しは間が持つのだが、二人きり
  で過ごす時間が俺は苦手だった。
   それは向こうも同じらしい。顔をあわせても気まずそうに視線を逸らすだけ。
   そうしてよく病室を抜け出していた。
   しかし周囲がいうには、啓介と俺は仲の良い兄弟だったらしい。親も、友人だという史浩も、見舞いに
  来てくれた人々皆が口を揃えてそう言った。
   驚きだった。正直信じられなかった。
   こんな目つきの悪い、生意気そうな奴と仲良くしていたなんて───。


   事故からしばらくして、俺は病院を退院して家に戻った。啓介も一緒だった。
   病室で過ごしていても記憶を取り戻すきっかけは掴めそうにないからと、両親を説得して。
   しかし家に帰りたいという一番の理由は記憶を取り戻したかったからではない。もちろんそれも理由の
  一つだが、一番の理由は弟だという男と一緒にいたくないからだった。
   両親は退院を承諾してくれたが、しかしやはり俺たちが心配だったらしく、友人の史浩がしばらく一緒
  に暮らす事になった。
   史浩はいい奴だった。
   史浩が車を運転していた時、俺たちが記憶をなくしてしまった事故にあったらしい。その責任を感じて
  なのかもしれないが、それだけではなくきっと生来の性格なんだろうと思う。史浩は何かとよくしてくれ
  た。記憶を失った俺に、あれこれと以前の事を教えてくれた。
   それは俺にだけではなく、啓介に対してもだった。
   啓介も史浩とは話があうようだった。よく二人で話をしていた。
   家に帰った直後、さっそく一騒動あった。
   啓介の部屋は壮絶な散らかり様で、床は一面に物が散らばり踏み場もない状態だった。それを啓介は
  自分の部屋じゃないと言い張ったのだが───。
   史浩の証言でそれは確かに啓介の部屋だという事がわかった。
   関わり合いになるのは御免だったから、俺は早々に自分の部屋に引っ込んだが、史浩は啓介の部屋の
  片付けを手伝ってやっていた。結局二人で二日がかりで片付けていた。
   俺からすれば、史浩と啓介の方がよほど兄弟らしかった。
   でも、それでいいと思っていた。
   忘れてしまったものは仕方がない。昔は仲が良かったからといって、兄弟だからといって、同じように
  過ごさなければいけないという事はない。
   啓介の方も俺を避けていた。話さず近寄らず、たまに視線があっても不貞腐れたように顔を背けるばか
  り。
   一度だけ、史浩に頼まれて啓介を朝起こしに行ったら、その時には悲鳴を上げられた。
   かと思うとこそこそと俺の携帯電話を調べたり───人を冷血漢呼ばわりしたり。
   何を考えているんだか、どんな奴なんだかさっぱりわからない。
   だから極力関わり合いにはなるまいと、俺は心に決めていた。


   啓介との事とは正反対に、大学への復帰はスムーズだった。
   史浩が同じ大学で何かとフォローしてくれた事もあったが、忘れていたと思っていた知識も講義に出れ
  ば、かつて学んだ事まですんなりと思い出せた。それが面白くて勉強に没頭したり、以前読んだ本をとに
  かく片っ端から読み返したりしてみた。
   そして俺自身驚いたのだが───俺は夜の赤城山で走り屋をやっていたらしい。レッドサンズというチ
  ームのリーダーをしていたと史浩に教えられた。史浩もそのチームの一員だという。そう教えられても、
  すぐには信じられなかった。
   けれど家のガレージにあった白い車───FCという車が俺は妙に気になって仕方がなかった。
   しばらく落ち着くまではと史浩に止められていたが、早く乗ってみたいと思っていた。
   ちなみに啓介も走り屋で、同じレッドサンズでNO.2の速さだったらしい。
   どうでもいい事だったが、そんな時まで一緒だったのかとかつての自分たちにちょっと呆れた。
   そうして家に戻り大学へも通い、ようやく生活も落ち着いたかと思えた頃───史浩に簡単なレクチャ
  ーを受け、FCを運転してみた。
   最初にエンジンをかけた時、身体が身震いした。きっと初めてFCに乗った時も、こんな気分だったの
  ではないかと思うほど気持ちが浮き立った。
   そして運転。
   車にはドライバーのクセが残ると史浩は言ったけれど、自然に身体が動いたというか───まるでFC
  の方が俺に運転を教えてくれているような感覚だった。
   運転は楽しかった。どうすれば速く走るのか、どうやったら速くなっていくのか、それを考え突き詰め
  て、実践していくのは楽しかった。
   夢中になって毎夜、峠に通い詰めた。かつての自分が走り屋をしていたのもわかるような気がした。


   そんなある夜、啓介まで峠にやってきた。
   最近は食事も一緒にとっていない。顔を見るのも久しぶりだった。
   しかし啓介の方が俺から顔を背けた。関係ない奴だとは思っていたが、そんな態度には正直腹が立っ
  た。
   峠には俺たちの他にも数人のレッドサンズのメンバーが集まっていた。
   そしてその場の成り行きで、俺はFCの助手席に啓介を乗せて走る事になった。
   てっきり啓介の方が嫌がるだろうと思ったのだが、意外にも啓介は後に引かなかった。俺と同じく意地
  になっていたのかもしれなかった。
   そのまま、赤城の下りを一本走った。
   啓介が夜の峠が初めてだとか、まだスピードに慣れていないとか、そんな事にはお構いなくFCを走ら
  せた。もちろん途中で車を止めろと言われたら、すぐに止めるつもりでいたが。
   けれど制止の声も悲鳴も聞こえず、結局そのままFCは下り一本を走り終えた───。
   走り終えて、啓介の様子はどうかと伺えば───少しだけよろめいていたが、意外にも平静だった。
   もしかして腰を抜かすだろうかと思っていたのだが。
   そして意外にも、俺の運転を褒める言葉を口にした。
  「あんたの事、冷たくてすかしててヤな奴と思ってたけど───……すげーな」
   冷たくては余計だったが、そう言って啓介は笑った。
  「すげぇよ、あんた」
   笑うと意外にも印象が変わる。いつもはキツい表情をしているのに、まるで子供のようだった。
   啓介からそんな笑顔を向けられたのは、記憶を失ってから初めてだった。


   それからは日常生活も少しだけ変わった。
   啓介とはお互いに話をするようになり、食事も一緒にとるようになった。
   とは言っても話すのは車に話が主だった。けれどそれでも今までの日々を考えれば、大きな変化だっ
  た。
   啓介はよく笑顔を見せるようになった。
   今までの不機嫌さが嘘のようによく笑った。そうされると俺も話しやすくなる。そしてこんな風に慕わ
  れていたのなら、仲が良かったという話も本当だったのかもしれないと思った。
   ようやく少しだけ、落ち着いた日々が戻ってきたと感じ始めていたのだが───……。
   ある日、FCで家に帰るとガレージに啓介のFDと史浩の車があった。どうやら今日は俺が一番遅い帰
  宅だったらしい。
   ガレージにFCを収め、家に入る───と、玄関を入ってすぐのリビングから、言い争う声が聞こえて
  きた。
   声の主は啓介と史浩だった。
  「───が抱いてたんだよ?」
  「そんな事を気にするな!」
  「気になるだろ!!」
  「だって男としたらやっぱ気になるだろ!? でも俺もあいつも記憶ないし、まさか親にも聞けねーし、
  だったら史浩に聞くしかないだろ」
   何の話だろう。啓介の彼女の話だろうか。そもそも啓介が誰かと付き合っていた事など俺は知らなかっ
  たが、それは仕方がない。
   ようやく話をするようにはなったが、それは主に車の話ばかりだったから。
   記憶をなくしてから付き合い始めたのか、それともなくす前からつきあっていたのか。その彼女の事だ
  けは啓介は覚えていたのだろうか。
   そんな事を考えながらリビングの扉に手をかけたのだが───。
  「聞くなっ!! お前と涼介の濡れ事まで俺が知るかっ!!」
  「だってお前にだったら何でも話してそうだし。それだけ教えてくれよ。そしたらもう何も聞かねえから
  さ。俺があいつヤッてたのか、それともあいつが俺を───」
   二人の言葉に、思わず持っていた本を取り落とした。
   頭が真っ白になった。いま二人は何を言ったのだろうか。
   しばらく立ちすくんでいると、恐る恐るといった風にリビングの扉が内側から開いた。
   開けたのは啓介だった。俺が聞いていたのを見て、顔色を変えた。
  「やべ……」
  「りょ……涼介」
   奥に居た史浩も真っ青になっていた。
   俺もしばらくは言葉もなかった。啓介も史浩も一歩たりとも動かなかった。
   気まずく重い沈黙だけが、リビングに充満した───。
   そんな中、止まった思考のままで、俺は動いた。
   とりあえず足元に落とした本を拾った。そうして身体を動かすと、少しだけ話をする気力がわいてきた。
  「……何、だって?」
   固まっていても仕方がない。二人に向き合うために、リビングに入った。
   しかし啓介も史浩も、俺の質問には答えなかった。怯えたような表情でその場を動かずにいた。
   だからもう一度、問いかけた。
  「誰と、誰が、…………何だって?」
   それがそのまま正直な、その時の俺の気持ちだった。

   


涼介さまの一人称って、難しいです……(−−;)
改めてこうして書いてみると、いかに自分が普段(私の書く)啓介の気持ちにシンクロしているか、よ〜くわかっ
て恥ずかしいですね〜(^^;)