ニ分割兄弟綺談・2



   高橋クリニックの一室。史浩は青ざめた顔で、病室の椅子に力なく座り込んでいた。
   病室の窓から差し込む光は真昼の日差し。
   事故からすでに半日が経とうとしていた───。


   その瞬間の記憶はまるでスローモーションのように脳裏に焼きついていた。
   身体に伝わってくる衝撃。そしてベンツの車体は止まった。
  「……ってぇ───」
   恐る恐る顔を上げれば、フロントガラスの向こう───ボンネットのすぐ前に電柱があった。
  「やっちまった……」
   落胆しかけた史浩だが、慌てて運転席を飛び出した。ベンツのフロント部分に駆け寄った。
   幸いにして身体のどこも痛まず、手も足も自由に動かせた。シートベルトをしていたのとそんなに速度
  を出していなかったせいだろう。
   史浩が運転していた高橋家のベンツと言えば───……電柱にぶつかり、バンパーが微かにへこんで
  いた。
   しかしさすがにドイツ車は頑丈らしい。電柱と仲良しになってもへこむだけですむとは、ラッキーだ。
   それでも史浩は目の前が暗くなる思いだった。
   何しろ車はベンツだ。外車だ。高級車だ。わずかな傷でもどれだけの修理費になるのか───。
   そこまで考えて、史浩はようやく異変に気づいた。
   後部座席に座っている筈の涼介と啓介。その二人が二人とも車から出てこないのだ。
   ベンツの周りには既に、事故に気づいた近隣の住人たちが数人、家から出てきて集まりつつあるという
  のにだ。
  「涼介……? 啓介?」
   不意に沸き上がった嫌な予感に急かされながら、史浩はベンツの後部座席に駆け寄った。
  「……おい?」
   恐る恐る車内を覗き込む。
   そこには、意識を失った兄弟二人がシートの上に倒れていた。


   史浩はすぐに高橋家が経営する病院、高崎クリニックに連絡した。
   救急車を呼んでどこか遠くの夜間指定救急病院に運ばれるよりも、よほど早く治療が受けられると思っ
  たからだ。
   案の定すぐに車が回され、二人は高橋クリニックに運び込まれた。真夜中ではあったが、治療には病院
  にいた涼介たちの両親自らがあたった。
   意識こそなかったが、二人には大きな外傷も出血もなかった。けれどどこにどんな傷を負っているか分
  からない。それを調べるために、レントゲンを始めとする検査が急いでなされた。
   検査の結果、どこにも異常は見つからなかった。骨折もしていないし内蔵も傷ついてはいなかった。心
  拍数も安定していた。
   念のために脳波もとってみたが、それにも異常はなかった。
   史浩も二人とは別に検査を受けていた。大丈夫だからと遠慮したのだが、万が一のことがあってはいけ
  ないからと病院側に言われて、史浩は身の縮む思いだった。
   検査の結果は怪我もなく、その後の史浩は二人が治療中の治療室の前でまんじりともせず過ごした。
   その間に史浩の親も連絡を受けて、高橋クリニックに駆けつけてきた。
   そして兄弟二人の治療が終わり、治療室から出てきた高橋夫妻に史浩は親子して頭を下げた。
  「すみませんでした!」
  「史浩君、涼介たちは大丈夫だから」
  「あなたも怪我がなくてよかったわ。早くに連絡をありがとう」
   息子二人が同時に事故にあったというのに、夫妻の返事は穏やかだった。二人が怪我もなく重体でもな
  いからか、それとも医者としての冷静さからだろうか。
   涼介と啓介は一緒の病室にベッドを並べて、寝かされていた。
   あとは二人が目覚めるのを待つばかりだった。
   帰宅を勧められた史浩だったがそれを固辞し、親だけを帰し自分は病室へと残った。
   二人の目覚めを心から待ちながら───。


   しかし長い夜が明け朝が来て、太陽が顔を出したのに、涼介も啓介も目を覚まさなかった。二人とも未
  だに眠ったまま───意識を失ったままだった。
   時間が経つにつれ、不安な空気が病室には満ちていった。
   病室の片隅に座って待ちながら、史浩は様々な事を考えた。自然、思考は悪い方向へと向かった。
   涼介の、そして啓介の健康、レッドサンズ、高橋家───果ては高橋クリニックの未来まで、史浩の脳
  裏にはどんどん暗い想像が駆けめぐった。
   頼むから目を覚ましてくれと、二人の枕元で史浩は一心に祈った。
   そんな史浩の気持ちが、天に通じたのか───。
  「う…………」
  「!!」
   事故から半日以上過ぎて、初めて啓介が身じろいだ。
   そして、瞬きもせず史浩が見つめる中───うっすらと啓介が瞼を開いた。
  「け、啓介ぇ……」
   史浩は涙目になっていた。
   目覚めた啓介は、けれどまだ意識がはっきりしないのか、しばらくボンヤリとした視線を病室の天井に
  向けていた。
   その視線があまりに虚ろで、史浩は心配になった。
  「啓介、大丈夫か? どこか痛いとこないか?」
  「…………」
  「啓介?」
   しかし史浩が呼びかけても、啓介は何の反応も示さなかった。
   不安になった史浩は、啓介に呼びかけ続けた。
   何度か名前を呼ぶと、ようやく啓介の視線が史浩へと向いた。
  「おい、啓───」
  「……あんた誰?」
   やっと返ってきた啓介の言葉は、しかし待っていた史浩を安心させるものとは程遠かった。


   知らせを受けて駆けつけた両親の顔を見ても、何を話しても───啓介は誰の事も思い出せなかった。
   あろう事か自分の名前も思い出せない有り様で、病室は大騒ぎになった。
   こんな時、涼介がいてくれたら───。
   啓介に何かあった時、支えていたのはいつも一番身近にいる兄の涼介だった。
   なのにその涼介は、今はまだ目覚めていなかった。
   一刻も早く目を覚ましてくれ───誰もがそんな思いから、自然と隣のベッドに眠る涼介へと目をやっ
  た。すると───。
  「…………ん」
   皆の願いが通じたのか、涼介の瞼が動いた。
  「涼介!」
   そして皆の見つめる中、ついに涼介も意識を取り戻した。
   この世に神はいるらしい。感謝したい気持ちで史浩は涼介の枕元にすがりついた。ほとんど半泣きだっ
  た。
  「よかった、涼介! 啓介が大変なんだ───」
  「…………お前、誰だ?」
   ───涼介の言葉は、再び史浩を奈落の底へと突き落とした。



…という訳で、一度は書いてみたかった記憶喪失ネタです(^^;)
啓介と涼介さまのどちらを記憶喪失にしようか考えたのですが、私の想像力じゃおもしろくならないかも…と
思い、この際二人一緒に記憶喪失!というのを書いてみようと思い立ちました(^^)
そして史浩の苦労は、これからが本番です〜(^^)