ニ分割兄弟綺談・20
高橋家に向かって、一台のベンツが走っていた。
運転するのは史浩、そして後部座席には高橋兄弟が座っていた。まるでいつかの飲み会の帰りのよう
だった。
違っていたのは飲み会からではなく、病院から帰ってきた事。ベンツのバンパーは取り替えられていた
事。
そしてベンツが無事に高橋家に到着し、涼介も啓介もそれぞれの足で車から降り立った事だった。
「アニキ、本当に俺の事まで忘れてたのかよ」
「そうらしいな」
「ひでえ! それって冷たくねぇ?」
「お前だっておれの事を忘れていたんだろう」
「そ、そりゃそーかもしれねぇけど……」
啓介の文句を聞き流し、さっさと家に入ろうとする涼介の後を啓介も追った。
「何も一緒に記憶をなくしたからといって、戻る時まで一緒でなくてもいいのに……」
そんな二人の後ろ姿を見つめながら、ため息をついた史浩だった。
階段から落ちた衝撃で、涼介と啓介の記憶は戻った。
念のために高橋クリニックに行き検査をしたが、どこにも異常はなかった。頭に瘤を作っていたくらい
で、兄弟の両親はもちろん大喜びだった。
記憶を失っていた間の事は、二人とも覚えていなかった。
だから史浩はその間の事を話して聞かせたのだが───。
「嘘つくなよ、史浩」
「嘘なもんか」
リビングに落ち着きお茶を飲みながら、啓介は史浩に噛みついた。
啓介と涼介はもちろん、同じソファーの隣あわせに座っていた。
「俺とアニキがんな仲悪い訳ねーだろ」
「いや、本当だって」
その間の出来事を聞かされても、啓介には信じられないようだった。
そんな二人を余所に、涼介は本を読んでいた。
「アニキ、なに読んでるんだよ」
涼介が答える前に、啓介は本の表紙を覗き込んだ。
「……『集合論』……?」
「数学の本だ」
「面白いの?」
「ああ」
涼介は視線を本から啓介に向けると、嬉しそうに話した。
「面白い。無限は無限でも自然数の数と無理数の数が違うなんて、ロマンを感じるだろ」
「ロ……ろまん……?」
ロマンも何も、涼介の言葉がさっぱり理解できなかった。
涼介は本を閉じて話を続けた。
「記憶をなくしてた間に俺が選んで読んでいた本らしいんだが……。どうやら記憶がなくなっても個人の
興味や思考は同じ方向性を示すらしいな」
「そうなのか?」
「まあ元が同じ人間だからな」
そんな事を話す二人を、史浩は複雑な気持ちで見つめた。
結局、二人をただの兄弟に戻す事はできなかった。
あのまま記憶をなくしたままでもどうなっていたかはわからないが、つくづくそれが残念だった。千載
一遇のチャンスだったのに。
そんな史浩の思いは、涼介の言葉に中断された。
「世話かけたな、史浩」
「いや、俺は何も───」
「俺の部屋も片づいたし、サンキュー史浩」
「いや……」
ははは、と史浩は力なく笑った。
「じゃあ、そろそろ帰るな」
史浩は席を立った。
何はともあれこれでようやく、史浩も家に帰れるのだ。
高橋家から出て行けるのだ。
きっとまたこの戻った二人に、胃の痛むような思いを味あわされるのだろう。
けれど今だけでも高橋家から───この兄弟から開放されるなら何でもよかった。それだけが史浩の救
いだった。
……それに、本当はわかっているのだ。
あの事故の時も階段から落ちた時も、二人はお互いを庇いあうようにしていた。
涼介は啓介を守り、啓介は涼介を守ろうとするように、お互いを抱きしめていた───。
そんな二人を別れさせようなんてのが、そもそもの間違いだったのかもしれなかった。
そう思えば、史浩の心は少しだけ軽くなった。
「あ、見送らなくていいから───」
二人を振り返った史浩だったが、途中で言葉を失った。
「アニキ……」
「こら、啓介!」
史浩の目に映ったのは、啓介が涼介に抱きつき頭を叩かれるという、よく見知った光景だった。
「お前ら、そーゆー事は俺が帰ってからにしろよな!!」
史浩の叫びが虚しく響いた。
心労の日々は、まだまだこれからも続きそうだった。
〈END〉
長らくのお付き合い、ありがとうございました。やっとエンドマークがつけられました。
書きたかったケンカする兄弟が書けて嬉しいです(^^)
え? ラブラブはどうしたのかって?(^^;)
……私的にはこれも一種のラブラブのつもりだったりして…。えへへ(^^;)>