ニ分割兄弟綺談・3



   事故から半日以上経ち、ようやく目覚めてから一週間。
   涼介と啓介の記憶は戻らないままだった。兄弟そろって記憶喪失になるなんて、これはもう打ち所が悪
  かったのか、運が悪かったのか───それとも日頃の行いが悪いのか。
   いくら考えても答えなど出る訳もない。
   そんな訳で高橋クリニックを訪ねるのが最近の史浩の日課だった。
  「よお、涼介」
  「……ああ」
   二人の病室を訪ねると、居たのは涼介だけだった。
   ベッドには寝ていたが半身を起こし、分厚い本を読んでいた。
  「なに読んでるんだ?」
   涼介の手元を覗き込むと、その手に握られていたのはなにやら難しそうな化学の本だった。
  「どっからそんな本を……」
  「家にあったのを持ってきてもらった。ただの暇つぶしだ」
  「こんな時ぐらいゆっくり休めよ」
  「俺は元気だ。ここ以外はな」
   言いながら涼介が指さしたのは自分の頭だった。
   二人の経過は良好だった。もともと身体に怪我はほとんどなく、何箇所か擦り傷をつくったくらいです
  んでいた。
   ただ、記憶が戻らないだけで───。
   記憶喪失といっても全てを忘れてしまった訳ではなかった。例えば朝起きたら顔を洗う、寝る時には部
  屋の電気は消すといった生活習慣などはきちんと覚えていた。決して赤ん坊に戻った訳ではなかった。
   けれど自分に関する事と、家族、友人など───パーソナルデータをきれいさっぱり忘れてしまってい
  た。涼介も、啓介もだ。
   仲の良い……いや、仲の良すぎる兄弟だとは思っていたが、こんな時まで一緒でなくともいいんじゃな
  いかというのが、史浩の正直な思いだった。
  「史浩。毎日来なくてもいいぞ」
  「そんな訳にはいかないだろ」
  「お前の方が病人のような顔色してるぞ。真っ青だ」
  「…………」
   こんな会話を交わしていると、涼介は今までとちっとも変わらないようだった。
   けれど史浩の名前を呼ぶのも、そう教えられたからだった。友人で、そして事故にあった時に一緒にい
  た走り屋仲間だという事を、教えられて覚え直したからだ。
   涼介はこの一週間、そんな風に親の名前や友人の事を教えられて、それを一から覚え直していた。
   もちろん、その中には弟の啓介も含まれていた───。
  「啓介はどうした?」
   先程から姿の見えない啓介を気にして、史浩は涼介に聞いた。
  「さあ」
  「さあって、涼介……」
  「昼食の時は居たけど、その後は知らん」
   涼介の返事は素っ気ないものだった。いくら記憶をなくしたとはいえその言葉の冷たさに、史浩は驚い
  た。
   視線は手元の本に落としたまま、涼介はぽつりとつぶやいた。
  「……なんであいつと一緒なんだろう」
  「なんでってそりゃ、兄弟だからだろ」
  「………………」
  「涼介?」
   奇妙な沈黙が病室に流れた。それを問いただそうとしたが、そこで病室のドアがノックもなしにいきな
  り開いた。
  「あれー、史浩?」
  「け、啓介……」
   入ってきたのは啓介だった。家から持ってきてもらったのかパジャマ姿ではなく、ジーンズにシャツ、
  ジャケットを着込んでいた。
  「今日も来たのか? 毎日暇だなあ」
   自分を心配してくれている史浩の気遣いなどどこへやら、啓介はぬけぬけと言ってのけた。
  「どこ行ってたんだ、啓介」
  「メシ食いに外行ってた」
  「外ぉ!?」
   予想外の答えに史浩が素っ頓狂な声を上げた。涼介は平然と読書を続け、当の啓介は自分のベッドへ
  と腰を下ろした。
  「入院してるのにそんな、勝手にいいのか……?」
  「だってここのメシって、味はともかく量が少ねーよ。あれじゃ足りねーって」
  「店とか分かったのか?」
   確か啓介も記憶喪失だったはずなのだが。
  「この近所をぶらついてただけだし、そんなのどうにかなったぜ」
   まったくたくましい事この上ない。いや、ただ単に食い意地が張っているというべきか。
   感嘆しつつ呆れたというのが史浩の正直な心境だった。
  「涼介は行かなかったのか?」
  「俺は出された食事だけで充分だ」
   その言葉に啓介は涼介をチラッと見たが、何も言わずにベッドに寝ころんだ。
  「あー、退屈だ。早く退院してえなぁ」
  「啓介」
   そんな事が許される訳がない。啓介の言葉を史浩はたしなめたが、啓介にはまったく意に介す様子はな
  かった。
  「だってちっとも思い出せねーし。こんなとこいたってやる事ないし」
   そう言う啓介、そして隣の涼介のベッドの枕元には、それぞれ数冊のアルバムが置いてあった。それは
  生まれた時から現在に至るまでの兄弟の成長の記録だった。
   この一週間、何度もそのアルバムを開いて眺めた。
   その間には親戚、学校の友人、そしてレッドサンズのメンバーたちも見舞いにと来てくれた。
   しかしアルバムを見ても、誰に会っても、何も思い出せないのだ───。
  「ここでじっとしてるより、家に戻って今まで通り暮らした方が記憶も早く戻るんじゃないかなあ」
  「それは……」
   史浩は口ごもった。
   確かに啓介の言う事にも一理あるような気がした。しかしまさか病人をそう簡単に家に戻す訳にはいか
  ないだろう。
   そう諌めようとしたが、意外な声がその意見に同意した。
  「……そうだな」
  「涼介!?」
   史浩が驚いて涼介を見ると、涼介は読んでいた本を閉じたところだった。
   それまで啓介と視線もあわせなかった涼介が、初めて啓介を見た。啓介もぎこちなく涼介を見つめ返し
  た。
  「───」
  「取り敢えずここから出るためには、いい理由になるな……」


   一日も早く記憶を取り戻すために、と言われても、医者である両親はすぐには頷きはしなかった。
  「しかし、お前たち二人だけで暮らすというのもなあ……」
  「そうよ。何かあったらどうするの?」
   もともと高橋家は四人家族でありながら二人家族のような生活だった。夫妻は医者の仕事が忙しく、家
  にはほとんど寝に帰るだけという状態で、ほとんど兄弟二人で過ごしていたようなものだった。
   食事や掃除は今までも通いの家政婦がやってくれていたのだから、生活するにはどうにかなるかもしれ
  ない。
   しかし一応病人を、それも二人だけで家に帰すという訳にもいかなかった。
   だったら夫妻のどちらかが休暇でもとればよいのだが、そうするには二人とも医者としての仕事が忙し
  すぎた。
  「鈴木さんと佐藤さんの容態が、まだ安定してないしなあ……」
  「私だって小林さんの手術が控えてるのよ。今は休めないわ」
  「手術? 結局する事にしたのか?」
  「ちゃんと本人にも話して承諾を得てます」
  「しかしもう少し投薬を続けても───」
   兄弟二人の病室で医者である二人は、いつの間にか患者の治療方針を話し始めた。
   涼介と啓介、そして史浩は、半ば呆れてそれを眺めていた。
  「それが最善の手なのかい!?」
  「私はそう信じてるわ!」
   しばらく無言で見守っていたが、二人の口調は段々熱を帯びてきた。そのまま放っておけば大喧嘩にな
  りそうだった。
  「おじさんおばさん、やめて下さい!」
   たまらず史浩は二人の間に割って入った。
  「史浩君」
  「患者の事も大事でしょうが、もっと涼介たちの事を考えてやって下さい!」
   史浩は珍しく声を荒らげた。普段が温和なだけに、それは迫力があった。
   口を噤んだ夫妻は自分たちの間に立ちふさがったままの史浩を見つめた。
   しばらくの間、夫妻の視線が史浩に集まった。すると───。
  「そうか……!」
  「そうね……!」
   夫妻は嬉しそうに、何事かを思いついたようだった。
  「史浩君」
  「は……はい?」
   にこやかな声で夫妻に名前を呼ばれて、史浩は咄嗟に嫌な予感がした。
   そして、その予感は見事に的中した。
  「この子たちを退院させるから、しばらく一緒に暮らしてくれないか?」
  「なっ、なにをいきなり───!!」
  「父さん、母さん!」
   さすがにそれまで黙っていた兄弟二人も驚いたが、それを制して夫妻は話を続けた。
  「だって二人だけで家に帰すのはやっぱり心配だし……。史浩君がいてくれるなら、その点は安心できる
  しね」
  「だからって、そんな……」
   史浩は困惑した。
   そりゃあ涼介も啓介も友達だ。こんな事になってしまった責任も感じている。
   しかし……しかし、恋人同士でもある二人と一緒の生活なんて、史浩は想像したくもなかった。一つ屋
  根の下で一緒に暮らすなんてもっての外だ。
   考える余地などかけらもなかった。
  「申し訳ないですけど、俺は───」
   断ろうとした史浩に言い渡されたのは、駄目押しの一言だった。
  「ああ、もちろんベンツの修理代なんか、気にしなくていいからね!!」
   ……そう言われて、気にならない人間などいるだろうか。
   このところ調子の悪かった史浩の胃は、ついにズキズキと痛みだした。
   うっかり失念していたが、やはりこの夫妻は高橋兄弟の親だったのだ……。


史浩は嫌な予感に見舞われ、それは大当たりになりましたが、私も嫌な予感に襲われています。
なんだか話が長くなりそうです……(ーー;)