ニ分割兄弟綺談・8



   高橋家では今朝も、史浩が朝食の支度をしていた。
   スープやサラダは家政婦の女性が昨日作ってくれていったが、卵焼きやパンのトーストなどはさすがに
  朝に焼かなくてはならなかった。
   史浩が慌ただしく支度をしているその同じキッチンで、涼介は今日も朝刊を読みながらのんびりとそれ
  を待っていた。
   しかし高橋家のもう一人の家人───啓介はいつまで経っても起きてくる気配がなかった。
  「おい涼介。啓介を起こしてきてくれ」
  「……俺がか?」
  「お前以外に誰が居る」
   ボウルに卵を六個割り入れながら、史浩は早口で言い放った。
   今日から兄弟二人は大学へ復帰する事になっていた。しかしまだ車には触っていなく、運転できるかど
  うかもわからない状態だ。
   だからタクシーを呼んで啓介を大学に送り出し、その後に涼介と一緒に群大へ向かうつもりだった。こ
  れで史浩が涼介と同じ大学でなかったら、もう一台タクシーが必要だっただろう。
   本当は啓介も送ってやりたいのだが、そうなるとかなり早い時間に家を出なくてはならない。そんなの
  は御免だし、ガキじゃないんだから送り迎えなんかいらないというのが啓介の弁だった。
   だったら朝食のパンくらい自分で焼けよと言ってやりたい。
   史浩の今の心境は、子供二人を抱える主婦のようなものだった。
   しかしそんな史浩の忙しさなど気にする風もなく、涼介の返事は冷たいものだった。
  「史浩、行ってくれ」
   その口調には啓介とは係わりたくないという思いが、ありありと滲んでいた。
  「あいつの事はお前に任せる」
  「啓介はお前の弟だろうが」
  「とにかく、お前に任せる」
  「涼介!」
   できるなら史浩としてもそうしたいが───あいにく今は時間がなかった。もうあと三十分後には家を
  出ないと間に合わないのだ。
  「俺は手が放せん。それともお前が俺の代わりに卵焼きを焼くか?」
  「…………」
   卵焼きを焼く手間と、啓介を起こす手間。起こすといっても要は部屋のドアをノックして、声をかけれ
  ばいいだけの事。
  「……仕方ないな」
   涼介はため息をつきながらキッチンを後にし、二階への階段を上がった。
   自然と足取りが重くなるのは仕方がなかった。
   弟だというあの男───啓介が涼介は苦手だった。
   第一印象は最悪だった。初めて病院で顔をあわせた時、啓介は涼介を睨み付けてきた。
   兄弟だと教えられても話すことも何もないし、正直言って病室で二人きりでいた時など居心地が悪くて
  仕方がなかった。表面上は何事もないよう、平静を装っていたけれど。
   啓介の態度は今でも変わらない。何が気に障るのか、涼介が一緒にいる時はいつも不貞腐れたような、
  怒ったような態度だった。
   その鋭い目つきでいつも不愉快そうに涼介を見た。もちろん近寄ってもこない。
   近寄られても気まずいだけだけだから、それに不満はないが。
   けれど、啓介と涼介は以前は仲のいい兄弟だったらしい。
   周囲が言うには啓介は、昔は涼介の事を小犬のように一途に慕っていたらしいが、到底信じられなかっ
  た。今はそんな可愛げなどどこにもない。
   それに今さらそうなりたいとも思わなかった。
   昔は昔、今は今。仲が良かろうが良くなかろうが、今の涼介にとって啓介が兄弟であるという『事実』
  以外に、それ以上必要な事はなに一つなかった。


   いつまでも部屋から出てこない啓介だったが───実はとっくに目覚めていた。
   というより昨晩はほとんど眠っていなかった。ベッドに横にはなったが、一晩中寝返りを繰り返していた。
   原因は、ケータイだった。
   充電し直した自分のケータイが不眠の原因だった。
   昨夜、啓介はまずケータイのアドレス帳を開いてみた。
   そこにはずらっと人の名前が並んでいた。記憶を失う前の自分はそう付き合いが狭い方ではなかったら
  しい。男も女も、様々な名前が並んでいた。
   しかしそのほとんどが思い出せなかった。
   名前を見て顔が思い出せたのは、両親と史浩───そして『アニキ』だった。
   アニキといえば思い当たるのは一人しかいない。涼介だ。
  「俺あいつの事、アニキって呼んでたのか…………」
   今はとてもじゃないがそんな風に呼ぶ気にはなれなかった。
   その後もしばらくアドレス帳を眺めていたが、思い出せる事は何もなかった。
   そこで今度はEメールを開いてみた。
   受信ボックス開くと、そこには色々な相手からのメールが残っていた。
   そのほとんどの名前に覚えはなかったが、用件は飲み会の連絡やたわいないやり取りがほとんどで、取
  り立てて重要な内容はなかった。
   その中に何件か『アニキ』からのメールもあった。
   それを見て、啓介の心にふとした疑問がわいた。
   以前の涼介と自分はどんなやり取りをしていたのか。記憶を無くす前の、仲が良かったという自分たち
  ───それにわずかな興味を抱いた。
   そこで啓介は涼介から送られてきたメールを数件開いてみた。
  「なんだこれ……」
   涼介からのメール───しかしこれが果してメールと呼べるものなのだろうか。
   まず件名の頭にはほとんど『Re:』がついていた。まあそれはよしとしよう。問題はメールの本文だった。
   涼介からのメールの本文はといえば、『却下』とか『了解』とか───……それだけ。
   文章どころか単語のみ。素っ気ない事この上なかった。
   しかしあの冷たそうな奴らしいといば、この上なくらしかった。
  「こんなもんか……」
   なぜか虚しい気分を味わいながら、啓介は今度は送信ボックスを開いてみた。
   そこで啓介は我が目を疑った。
   まず、圧倒的に送り先が偏っている。送信ボックスに残ったメールの三分の二くらいが、ある特定の一
  人へのものだった。
   しかもその宛て先が───『アニキ』なのだ。
  「嘘だろぉ……。ホントに仲良かったのかぁ?」
   啓介の困惑は、いざ涼介宛のメールを開いてますます深まった。
  『今日は峠に来れる?』とか『あんまり無理するなよ』とかはまあ普通だが、『もう二日も顔見てない。
  アニキ、いつ帰れる? 実験まだかかるのか?』とか───。
   そんなに会いたいものだろうかと、送った当人でありながらそれを忘れた啓介は考えた。
   しかしメールチェックを進めるにつれ、啓介の顔からはだんだんと血の気がひいていった。
   なんというか……『キスしたい』とか『抱きしめたい』とか、セクハラまがいの文章が並んでいたのだ。
   宛て先を間違ったんじゃないかと思ったが、あいにくそういった類のメールは一件ではなく複数あった。
   そして、その宛て先がすべて涼介になっていたのだ。一件だけなら宛て先違いだと思えるのだが……。
   ケータイに残されたメールを読めば読むほど、啓介の顔色は悪くなっていった。
   そしてついに極めつけのメールを見つけてしまった。
  『今夜いい?』
   ───それを見た後、啓介は一晩中眠れぬ夜を過ごす羽目になってしまった。
   まさか、まさかそんな関係だとは……。
   いや、あり得ない。兄弟で男同士で、そんな事になる訳がない。
   しかし聞いたところによると啓介と涼介は仲がよく、よく一緒にツルんでいたそうだ。二十歳も過ぎた
  兄弟で、そうまで一緒なのも異常だった。
   いやしかし───あり得ない。
   そんな煩悶を一晩中繰り返しているうちに、いつの間にか夜が明けてしまっていた。
   しかし啓介は階下に降りていく気にはなれなかった。いったいどんな顔して涼介と会えばいいのか。
   かといっていつまでもこうして部屋に籠もっている訳にもいかなかった。そういえば今日は久しぶりに
  大学に行く日だった。昨夜の衝撃が大きすぎて、すっかり忘れきっていた。
   仕方なく、啓介はノロノロと身支度を始めた。
   着替えをしているうちに、不思議と少しだけ気持ちが落ちついてきた。
   やっぱりあれは何かの間違いだ。嘘か冗談、そんなものだ。涼介と会ったって何という事はない。
   平静に、平静に───……そう心でつぶやきながら啓介は自室のドアを開けた。
   しかしアの向こう側には───そこにはいま正にドアをノックしようとした涼介が立っていた。
  「ひいいいいっ!!」
   化け物にでも遭遇したような悲鳴を啓介は上げた。
   叫ばれた方の涼介も、驚いて目を瞬かせた。
  「な、何だ……?」
   驚きのあまり、啓介はつい怒鳴った。
  「なっ、なんでこんなとこにいるんだよっ!?」
  「なんでって……お前を起こしに来たんだ。いつまで経っても起きてこないから」
   啓介の剣幕にムッとしながらも、涼介が答えた。
   しかしそんなキツい表情もよかった。男にしておくのが惜しいくらいの美貌だった。
   恐ろしいのは、この顔を前にすると───そういうのもあり得たかも、と思ってしまいそうな自分がい
  る事だった。
   そう思いかけて、慌てて啓介は頭を横に振った。
  『うわあぁ、バカバカバカ! 考えるな〜!!』
   青くなったり赤くなったり、様子のおかしい啓介にさすがに涼介も心配になってきた。
  「どうかしたのか?」
  「何でもねーよっ!」
   折角の涼介の言葉にも怒鳴り返しただけで、啓介は慌てて階下へと駆け降りて行った。
  「……何だあいつ」
   その慌ただしい足音を聞きながら、つくづく変な奴だと涼介は思った。
   そして、やはり極力関わり合いにはなるまいと、改めて心に決めたのだった。