おにいちゃんといっしょ
〜こんにちは、赤ちゃん・3〜
結局マリアとシン、そしてフレイアの三人は、タクシーで病院から帰宅しました。
連絡を取ったウィリアムは会社で残業中で、すぐに帰宅しても病院に車で到着するのは一時間以上かかると分かったからです。
フレイアは病院から松葉杖を借りる事ができましたが、それでも歩くのが大変そうでした。
タクシーに乗り込むのも一苦労。マリアと、そしてタクシーの運転手の男性に手伝ってもらい、ようやくタクシーに乗り込む事ができました。
「すみません……」
タクシーの後部座席に乗り込んだマリアの横で、フレイアが申し訳なさそうに頭を下げました。
「いいのよ。困った時はお互い様だもの」
しかしそれ以上は会話も弾まず、タクシーの車内にはなんとなく沈黙が訪れました。
タクシーの運転手は寡黙なタイプらしく、ただ黙々と車の運転を続けています。
助手席ではさすがに疲れたらしいシンが、くうくうと一人眠り込んでいました。
シン家に着いてからも少し───いえ、かなり大変でした。
フレイアはアパートの二階の自分の部屋に帰ると言い張りましたが、何しろ自力では階段を上る事ができません。
松葉杖を使って階段を上るのは危険すぎます。
マリアにお腹の赤ちゃんのためにもと説得され、フレイアはようやく頷いた次第でした。
ちょうどそこにウィリアムが帰ってきました。
挨拶もそこそこにウィリアムとマリアの手を借りて、フレイアは一先ず今夜はシン家に泊まる事になりました。
「いただきまーす!」
シンとマリア、帰宅したウィリアム、そしてフレイアが食卓を囲んだのは、夜の9時近くでした。
シンはよほどお腹が減っていたのか、見ている方が気持ちいいくらいの勢いで夕食を食べ始めました。
ウィリアムはいつも夕食はこのくらいの時間ですから、のんびりとしたものです。
フレイアもお腹は減っているだろうに、なかなか箸を手に取ろうとはしませんでした。
「どうかしたの? それともお口に合いそうにないかしら」
「今日はありがとうございました。病院まで連れて行ってもらって、その上こんな……」
マリアが声をかけると、フレイアは頭を下げました。
「いいのよそんな事。さあ、食べて食べて!」
「おねえさん、食べてよ。ママのご飯おいしいんだよ」
コロッケを食べながらシンがそう言うと、フレイアは少しだけ表情を和らげました。
「いただきます」
シンに微笑み返し、ようやくフレイアも食べ始めました。
マリアの作った夕食は手作りのコロッケ、野菜サラダ、根菜たっぷりのけんちん汁などなど、どれも美味しいものばかりでした。
とは言っても夕方に作りかけていたものを、温め直したものではありましたが。
夕食を四人で囲みながら、話題に上ったのはやはりフレイアの事でした。
「それで、フレイアさんの怪我の具合はどうなんだい?」
ウィリアムの問いに答えたのは、マリアでした。
「骨に異常はないそうよ。ただ……捻挫だけど、全治3ヶ月ですって」
「そりゃあまた酷く捻ってしまったんだね」
驚くウィリアムに、フレイアは俯いてしまいました。
「すみません……」
フレイアは階段から転がり落ちた訳ではなく、ただ足を捻ってしまっただけでした。
が、思っていた以上に酷く捻ったらしく、医者から言われた回復までの期間は思った以上の長さでした。
「大変なのはフレイアさんなんだから、謝る事はないのよ」
マリアが優しく言うと、フレイアはホッとしたように顔を上げました。
それからフレイアはぽつりぽつりと自分の事を話し始めました。
つい昨日、隣のアパートに引っ越してきた事。
一人暮らしで、お腹には赤ちゃんがいる事。
食材や身の回りの物を買いに行こうと出かけて、階段下で足を挫いてしまった事。
事の顛末を聞いたウィリアムとマリアは、どうしたものかと思いました。
「引っ越してきたばかりでその足じゃ、さぞかし不自由だろうね」
「ご両親に連絡をしてみたらどうかしら?」
「それは……できません」
いないのではなくできない。
そう言うフレイアの態度や表情は頑なとも言っていいほどで、どうやら何か事情があるようでした。
「そうは言っても、その足じゃ何かと大変だと思いますよ?」
「大丈夫です」
フレイアはそう言いますが、どう見ても大丈夫とは思えません。
ウィリアムとマリアは、顔を見合わせました。
さすがは夫婦と言うべきか、同時にいいアイデアを思いついたのです。
「ねえあなた、足が治るまでフレイアさんに我が家にいてもらったらどうかしら?」
「ああ、それがいいね」
考えるにそれが一番の良案だと思われました。
けれど驚いたのはフレイアです
「いいえ。そんな訳にはいきません……!」
「でもこのままじゃ、不自由でしょう?」
「大丈夫です。何とかなります」
二人がどう言っても、フレイアは大丈夫の一点張りです。
「フレイアさんが遠慮するのは尤もだけど、また転びでもしてお腹の赤ちゃんに何かあったらどうするの?」
「…………」
自分の事は大丈夫だと突っぱねるフレイアも、赤ちゃんの事を出されると表情を曇らせます。
「ごちそうさまでした!」
フレイアが躊躇っている間に、シンは夕食を食べ終えました。
「おねえさん、ぼくんちにいようよ。赤ちゃんのためにもその方がいいよ」
「ほら、ジョミーもこう言ってるんだし……ね?」
「……はい」
小学一年生のシンにまで諭されて、複雑な気持ちを味わいながら、ようやくフレイアは首を縦に振りました。
結局フレイアはシン家の一階にある和室を借りて、しばらく泊まる事になりました。
引っ越しや足の捻挫、あちこちを行ったり来たりしたフレイアは疲れ果てていました。
そのせいか、その夜はぐっすりと寝てしまいました。
翌朝、フレイアは目を覚ましました。
カーテン越しのガラス戸からは、眩しい朝の光が降り注いでいました。
爽やかな朝でしたが、フレイアの心は晴れません。
布団から上半身を起こしたまま、考え込んでしまいました。
どうしてこんな事になってしまったのでしょう。
フレイアは望まれて結婚した筈でした。
けれどその結婚生活は、突然破綻してしまいました。
既にお腹に宿った赤ちゃんのためにも、フレイアはこれから一人で生きて行くつもりでした。
一人で子供を産んで、育てて、働いて、シングルマザーとして生きて行くんだと決意したばかりでした。
そのためにアパートを見つけて引っ越してきたのに、まさか怪我をして人様の家に転がり込む事になるなんてどうした事でしょう。
これからどうなってしまうのでしょう───。
じわじわとフレイアが暗い物思いに囚われそうになった時、不意に襖が音を立てました。
ドアをノックするように、襖を指で弾いているのでしょう。ぽすぽす、とどこか気の抜けた音がしました。
「……はい、どうぞ?」
フレイアが声をかけると、すぐに襖が開きました。
「おはよう、おねえさん」
ぴょこっと顔を出したのはこの家の一人息子、ジョミー・マーキス・シンでした。
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