おにいちゃんといっしょ・33



   その日、目覚めたシンが最初に意識したのは、喉の渇きだった。
  『……みず……』
   ぼんやりとした意識のまま、ベッドの布団の中で身じろいだ。
   身体はどことなく気だるく、重い。
   水を欲して自然と目が覚めたようだった。
   薄手のカーテンの引かれた窓からは、眩しい陽光が差し込んで来ていた。
   室内の温度もじわじわと暑く、上がってきていた。
  『いま何時だ……?』
   シンは時計を見ようと起き上がろうとした。
  「!」
   しかしそのままシーツの上に突っ伏した。
   動いたと同時に、激しい頭痛に襲われたからだ。
  「いててて……」
   頭を抱えて呻きながら、思い当たる事があった。
   これは間違いなく二日酔いだ。
   今まで二日酔いに陥った事などなかったが、昨夜はどうも飲み過ぎてしまったらしい。
   しかしなぜか痛みはそれだけではなかった。
   明らかに二日酔いと思われる痛みの他に、なぜか後頭部までがズキズキと痛んだ。
  「どこかにぶつけたか……?」
   シンは昨夜の記憶を辿ったが、不思議と痛みの原因について何も思い出せさなかった。


   つい先日、シンは誕生日を迎えた。
   当日は例年通り、家で誕生日パーティーをした。
   とはいっても大学生にもなってプレゼントがある訳ではなく、マリアとブルーの作ったご馳走を食べるだけだ。
   それでもブルーがパーティーをしなきゃ!と毎年意気込んでいるので、その気持ちは嬉しかった。
   シンは元々誕生日を喜ぶ質ではなかったし、自分よりもブルーの誕生日の方をよほど大切に思っていた。
   が、今年の誕生日は少しだけ違っていた。
   今年シンは二十歳になったのだ。成人したのだ。
   二十歳になったのなら、飲酒も喫煙も晴れてオッケーだ。
   特に誰はばかることなく堂々と飲めるようになれる身になったのは、とても嬉しかった。
   そのため昨夜は、大学の友人たちと飲みに行ったのだ。
   普段は面倒なので飲み会などは断るのだが、なんとなく気が向いて出かけて行った。
   出かける時、ブルーはなんとなく不満そうだったが、今日だけだからと一人で出かけたのだ。
   ベッドの中で、昨夜の事をシンは思い返した。
   日付が変わってもまだ店で飲んでいたのは覚えている。
   その時点で飲み会のメンバーの半分は酔いつぶれていた。
   その後も残ったメンバーで飲み続け……その後の記憶が綺麗さっぱりシンにはなかった。
  『完全に飲み過ぎたな……』
   酒には強い方だと思っていたが、どうやらシンはワクではなかったらしい。
   よくよく見れば、昨日着ていた服のままだった。
   ただ記憶にはないがこうして自室のベッドで寝ているのだから、酔ったままでも無事帰宅したようだ。
   頭に響かないよう慎重に身を起し、室内の時計を見ると時間は既に10時を回っていた。
   いくらまだ夏休みとはいえ、完全に寝過ぎだった。
   とりあえず階下に水を飲みに行こうと、シンはベッドから腰を上げた。
   すると不思議なものが目に入った。
  「……ん?」
   今まで気がつかなかったが、シンは右手に何かを握りしめていた。
  「……?」
   掴んでいたものを広げて、それが何かを確かめて───目を見開いた。
   シンが手にした白い生地のそれは、パンツだった。
   サイズとデザインからしてシンのものではない。
   どう見てもブルーのものだ。
  『どうしてブルーのパンツがこんなところに……!?』
   それまで二日酔いでぼーっとしていたシンの目が、一気に覚めた。
   常時数枚のブルーの服や下着は、シン家にも置いてある筈だった。
   頻繁にシン家に泊まるブルーの衣服をよくマリアが洗濯するのだが、うっかりシンの部屋に落として行ったのだろうか。
   そう思ってよくよく部屋の中を見まわしたが、室内の床にもどこにも他には何も落ちてはいない。
   なぜブルーのパンツを自分が握りしめていたのか、まったく理解不能だった。
   しかしいくら記憶を辿っても、シンの記憶は居酒屋で途絶えたきり、肝心な事が何も思い出せない。
  「…………」
   困ったシンはシンはブルーの下着を、とりあえずベッドの枕の下に隠した。


   シンが自室を出て階段を下りている途中、玄関のドアが開閉する音がした。
  「?」
   気にはなったがそのまま階下に降りて行くと、キッチンには母親のマリアがいた。
  「……おはよう、母さん」
  「あら、おそようジョミー。やっと起きたのね。何か食べる?」
  「まだいい。水だけくれる?」
  「はい」
   マリアから水の入ったコップを受け取ったシンは、そのまま隣のリビングへと向かった。
   ソファーに座りながら室内を見回したが、ブルーの姿はない。
   まだ夏休み、平日の今日はフレイアは仕事でいつもならブルーは朝から晩までシン家にいる。
  「……ブルーは?」
  「あら、さっきまでいたんだけど……いない?」
  「うん」
  「家に帰ったのかしら……。そういえばジョミー、あなた何したの?」
   マリアの問いに、シンはドキリとした。
  「何、って……僕が何かした?」
   表面上は平静を装いつつ、逆に聞き返す。
   するとマリアからの返事は、シンの予想もしていなかった内容だった。
  「ブルーちゃんにジョミーを起こしに行ってもらったら、裸ん坊で降りて来るんだもの。びっくりしたわよ〜」
  「───!!!」
   ぶはっ!と。
   マリアの言葉に、シンは飲んでいた水を盛大に噴き出した。
  「何やってんの、ジョミー!」
   それを見たマリアが慌てて、布巾を手にキッチンから駆けてきた。
   ゲホゲホと咳込みながら、シンは恐る恐る、気になっていた事を聞いてみた。
  「……ブルー、僕の部屋に来たんだ?」
  「そうよ。いつまで経ってもジョミーが起きてこないから、私が頼んだの」
   びしょ濡れになったテーブルの上を拭きながら、マリアは言った。
  「なのにジョミーったら、起きるどころか寝ぼけてブルーちゃんの服を脱がせちゃってねえ。ブルーちゃんが恥ずかしがるんで私が
  服を取りに行ったのよ。Tシャツや短パンは床の上に落ちてたからよかったんだけど、あなたったらブルーちゃんのパンツを持った
  まま眠り込んじゃって、どうしても起きなくて……。仕方ないからそのままにしておいたのよ」
  「───……」
   マリアはシンを咎めるでもなく、笑顔で話を続けた。
   まさか一人息子が悪戯しましたなんて夢にも思わず、その様子は朗らかだ。
   しかしシンの方は笑えなかった。居たたまれない気持ちで頭を抱えた。
  「あら、二日酔い?」
  「それもあるけど……まあそうかも……」
  「いくらお酒飲むのが解禁になったからって、ほどほどにしなさいね。ブルーちゃんに絡んだりしちゃだめよ」
  「はい……」
   絡んだのならいいが、まさか小学生に手を出してしまうとは、自分で自分が信じられなかった。
   そりゃつい先日ブルーにキスはしたけれど、あれだって無理やりではない。断じてない。
   成り行き的な感はあるが、確かに合意の上だ。
  『まさか最後まで手を出してなんかいないよな……そうだとしたら覚えてないなんてもったいない……じゃなくて!!』
   悶々と考え込むシンに、マリアが笑顔で言い渡した。
  「ブルーちゃん、恥ずかしがって帰っちゃったのかもしれないから、後でちゃんと呼んで来てね」
   マリアはまるで剣と天秤を持つ正義の女神のように、重大事項をシンに言い渡した。


   その後シンはシャワーを浴びて頭を冷やしたりしたのだが、残念ながら記憶は全然戻らなかった。
   昼食の時間になってもブルーはシン家にやってこなかった。
   シンも気まずいが、ブルーも気まずいのかもしれない。
   意を決したシンは、ブルーの家を訪ねた。
   玄関先のチャイムを鳴らしても、中から反応はない。
   仕方なくシンは玄関の扉の前で声をかけた。
  「ブルー、僕だよ。聞こえる?」
   反応はなかったが扉の向こうで足音が聞こえたので、ブルーにシンの声が届いている事は見当がついた。
   なのでそのまま続けた。
  「もうお昼だよ。ブルーが来るまで僕も母さんも待ってるよ」
   しかし中からの反応はない。
  「甘い西瓜とメロンも切ってあるんだよ。3時にはフルーツゼリーをおやつに食べよう」
   それでもまだ反応はなかった。
   シンは根気良く待った。
   するとしばらくして鍵の解かれる音と共に、目の前の扉がようやく開いた。
   扉の隙間からブルーが、恐る恐る……といった様子で顔を出した。
  「ブルー……!」
  「ジョミー……?」
   しかしブルーはまだ扉から顔を出しただけで、シンを警戒していた。
   まるで野良猫に手を差し伸べるような気持ちで、シンは精一杯邪気のない笑顔を作ってみせた。
  「さっきはごめんね、ブルー」
  「……どうしてあんな事したの?」
  「飲み過ぎて、まだ酔ってて……。自分で着替えるつもりが、間違えてブルーを着替えさせようとしちゃったみたいなんだ」
   苦しい、かなり苦しいいい訳だった。
   けれどまさかブルーを襲いかけましたとも言えずに、シンはそう押し通した。
   先日キスした翌日だって、どんな顔をしたらいいのか戸惑うブルーに、シンはいつも通りに振る舞い安心させた。
   ここでブルーを怯えさせて、気まずい関係にはなりたくないのだ。
   はたしてブルーに信じてもらえるかどうか───シンの内心は嵐のようだった。
  「なんだ、そうだったんだ」
   明らかに安心した様子を見せたブルーは、扉から出て来るとシンの元へ駆け寄ってきた。
   シンが拍子抜けするほどあっさりと、ブルーはシンの言い訳を信じ込んだ。
  「僕、ちゃんと起きて着替えてたのに」
  「うん、ごめんね」
  「飲み過ぎちゃダメだよ、ジョミー」
  「うん。気をつけるね」
   シンは何気ない風を装って、ブルーの髪に手を伸ばした。
   ブルーは逃げも嫌がりもせずに、シンの手が髪を撫でるのを許した。
   安心しきったブルーと同じくらい、いやそれ以上にシンの方が安堵していた。


   シン家に戻る短い道すがら、二人はあれこれと話した。
  「僕、一生懸命ジョミーを起したのに全然起きてくれなくて」
  「うん」
  「何度も声をかけたのに」
  「うん、ごめんね、ブルー」
   シン家に戻りながら、ブルーの文句にシンは耳を傾けていた。
   表面上は平静に、しかし実は冷や汗を流しながら、まるで事件を検証するような心持ちで聞いていた。
  「ようやくちょっとだけ起きてくれたかと思ったら、いきなり僕の服を脱がせ始めるし……本当にびっくりしちゃった」
  「……それだけだよね?」
  「それだけって?」
  「いや、何でもない」
   自分の身体の状態から、行為自体は未遂のようだと見当はつけていたが、まったく記憶がないので確信がなかったのだ。
   けれどブルーの様子から察すると、服を脱がす以上の事はしていないようだった。
  『それにしてもなんで欠片も記憶がないんだ……そんな事をしたのなら少しくらい覚えていても……』
   二重の意味でシンが考え込んでいると、隣のブルーがシンの顔を覗き込んできた。
  「そういえばジョミー、頭は大丈夫?」
  「え?」
  「さっきびっくりしてジョミーを突き飛ばしたら、壁に頭をぶつけてそのまま寝ちゃったから……」
  「大丈夫! 全然大丈夫だよ!」
   後頭部の痛みにようやく納得がいった。
   シンはわざとらしいくらいの笑顔で、明るく答えた。
  「ならいいんだけど……あ、そういえば僕のパンツは?」
  「!!」
   うっかり失念していた事をブルーに追及され、シンは一瞬言葉に詰まった。
  「……ちゃんと洗濯して、明日他の服と一緒に置いておくね」
  「うん、分かった」
   シンの返答に、ブルーは素直に頷いた。
   普段と変わらない様子を取り戻したブルーに、シンは最後のお願いをした。
  「ブルー、今日の日記にこの事は書かないでね」
  「え? 書いちゃダメなの?」
  「飲み過ぎてつぶれたなんて学校の先生に知られたら、僕が恥ずかしいから」
  「うん、じゃあ書かないね」
   まったく、小学生を襲ってどうするのか。
   節酒……いや禁酒、断酒だ!!と固く固く決意したシンだった。




シン、二十歳の誓いの巻でした。
翌朝、普段はしない洗濯するシンに、マリアは首をかしげた事でしょう。
かわいい話にしようと思ったのに、意外に難産でした〜(^^;)


2011.9.3




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