おにいちゃんといっしょ・6.5
10月のとある日曜日、シン家にやって来ていたブルーは、シンと一緒にリビングのソファーに座りながら本を読んでいた。
ブルーが手にしているのは小学校の図書室から借りてきた児童向けの北欧神話の本だ。
シンはシンで何やら不愉快そうな顔をしながら、テレビに見入っていた。
シンが見ていたのは珍しい事に、いま人気の女性アイドルグループが歌って踊っているDVDだった。
わざわざ見ているならそのアイドルが好きなのかと思いきや、シンの表情はどう見ても楽しんでいるようには見えなかった。
一生懸命本を読んでいたブルーだったが、不意に顔を上げて隣のシンを見た。
「ねえジョミー」
「ん?」
「ジョミーの学校の今年の文化祭っていつ?」
「!」
ブルーの一言に珍しくシンは固まった。
「僕、今年も行ってみたい!」
嬉しそうにブルーはそう言った。
去年の秋、ブルーはマリアと一緒にシンの学校の文化祭に初めて行ってみたのだ。
文化祭のお祭り騒ぎ、そして何よりシンの通う学校が見れて、ブルーはとても楽しい一日を過ごしていた。
しかしブルーにシンからの返事はなかった。
「ジョミー?」
「ああ……文化祭か。文化祭ね。ブルー、今年はもう終───」
「確か今度の土日だったわよね」
二人の会話を小耳にはさんだのだろうマリアが、隣のキッチンから声をかけてきた。
「次の月曜日、代休だって言ってたものね」
「そうなんだ!」
「…………」
マリアの言葉を聞いて喜ぶブルーだったが、なぜかシンの表情は優れなかった。
「ねえジョミー、行ってもいい?」
「……今年はうちのクラスは、何もやらないんだ」
「そうなの?」
去年、シンのクラスは模擬店でカレーを出しており、ブルーもカレーを御馳走になったのだ。
せっかくの学園祭なのに何もしないなんて、ブルーはちょっと驚いた。
「何もしないクラスは他にもいくつかあるよ。だから来ても面白くないよ」
「でも……やっぱり行きたい」
珍しくブルーは言い張った。
ブルーがシンの学校を見に行ける機会は、この文化祭の日しかないのだ。
「それに僕は今年、文化祭の実行委員をやっていて、何だかんだと忙しいからブルーを案内してあげられないし」
「じゃあマリアおばさんと行く!」
去年と同じ事を思いついたブルーが、そう言いだした。
それを耳にしてキッチンからマリアが顔を出したが、その顔はすまなそうな表情を浮かべていた。
「ごめんなさいね。今度の土曜日は地区のバザーの準備で、日曜日はバザー当日なのよ」
「それってママも一緒?」
「ええ、だからごめんなさいね」
「え〜……」
「ごめんね、ブルー」
ブルーはつまらなそうに意気消沈してしまったが、それ以上行きたいとは言い張らなかった。
その様子にシンは罪悪感を感じつつも、胸の内でやれやれと安堵した。
実行委員をやっているというのは大嘘だ。
しかし嘘をついてでも、今年だけはブルーに文化祭に来てもらっては困るのだ。
絶対にやるつもりはないが、危険の芽はどんな些細なものでも摘んでおくに限るからだ───。
そして次の日曜日の正午過ぎ。
なぜかシンの高校の正門前に、ブルーの姿があった。
たった一人で電車に乗って、ここまでやって来たのだ。
「来ちゃった……!」
緊張感からか頬をほのかに赤く染めたブルーは、けれど嬉しそうにシンの高校の校舎を見上げた。
一人で電車に乗ってやって来るのはちょっとだけドキドキしたけれど、去年マリアと一緒に来た事があったから大丈夫だった。
フレイヤとマリアはバザーの支度で忙しそうだったから、家に「ジョミーの学校に行ってきます」とメモを置いて出かけて来た。
ちなみにブルーは携帯電話もスマートフォンも持っていなかった。それが幸いして直接二人から連絡が来て、帰って来るように言われる事はなかった。
正門をくぐるとすぐに受付があり、学生数人が立っていた。
ちょうどブルーの前に子供を2人連れた夫婦がおり、ブルーもその夫婦の子供だと思われたのか、特に何も聞かれはしなかった。
「はい、文化祭のパンフレットです」
「ありがとう」
ブルーは受付でパンフレットをもらって、そのまますんなりと高校の敷地内に入った。
文化祭真っ最中の高校は、まさにお祭り騒ぎだった。
「わあ、にぎやか……!」
去年来た時もそうだったが、学校内のあちこちが華やかに飾りつけられ、生徒たちは忙しく走り回っていた。
一般公開されている学校内にいるのは生徒たちだけではなく、保護者やその子供たち、他校の生徒などなど、たくさんの人で賑わっていた。
去年来た時も思ったが、ここにシンが毎日通っているのだと思うと、それだけでブルーはわくわくした。
「ジョミー、どこにいるのかなあ」
パンフレットをパラパラとめくってみたが、シンが今年は何もしていないと言っていたのを思い出して、途中で見るのをやめた。
確かシンは2年A組だった。
実行委員で忙しいと言っていたけど、もしかしたら会えるかもしれない。
そう思ったブルーは、とりあえず2年A組へ行ってみようと思い立った。
「えっと、2年A組。A組……」
もう一度パンフレットを開いたブルーは、校内の案内図のページを開いて、2年A組の場所を確認した。
どうやらちょうど目の前の校舎の、2階の端にあるらしい。
去年行った1年A組は同じ校舎の1階にあったから、もしかしたら学年ごとに階が分けられているのかもしれなかった。
ブルーは昇降口で靴を脱ぎ、用意されていた来客用のスリッパに履き替え、2年A組を目指して階段を上った。
2階に上がり校舎の端を目指して歩くと、2年A組はすぐに見つかった。
廊下には人の行き来はあるが、教室内から人の気配は感じられない。
それでも教室の引き戸を開けてみた。
そおっとのぞいてみるとそこには誰も居なかった。
もちろんシンの姿もなくがっかりしたブルーだったが、せっかく来たのだからと教室の中に入って見た。
大きな黒板やロッカーがあるのは、去年見た教室とまったく変わらない。
けれどなぜか机や椅子が後方に乱雑に寄せられ、教室は広いスペースを保っていた。
教室のあちこちにはなぜか布───制服が散乱しており、まるで嵐の後のような有り様だった。
『何かやっていたのかな?』
ふと黒板を見ると「13時30分、体育館に集合。時間厳守!」とあった。
教室の壁にかけられた時計を見ると、12時50分。
もしかしたら体育館に行けば、シンに会えるかもしれない。
そう思ったブルーは体育館に行ってみる事にした。
2年A組の教室を出て、廊下を歩きながらブルーはパンフレットを開いた。今度は体育館の場所を確認するためだ。
『えっと体育館……体育館は───』
パンフレットを見るのに夢中になっていたブルーは、そのまま階段を降りようとした。
慣れない場所で足元も見ないまま足を踏み出したブルーは、階段を踏み外してしまった。
「わ……!」
そのまま階段から落ちそうになったブルーだったが、そうなる前にブルーを助けてくれた人がいた。
ちょうど階段を上がって来た人が、よろけたブルーを抱きとめるように支えてくれたからだ。
ブルーを助けてくれたのは、一人の女子高生だった。
まるでモデルのように背が高い。というか女子高生にしては高すぎるくらいの美人だった。
階段の途中で体勢を立て直したブルーは、ドキドキする胸を抱えたまま、助けてくれた女子高生にお礼を言った。 「ありがとう、おねーさん」
「…………っ」
その女子高生は何も話さないまま、ブルーにどこかぎこちなく、けれど優しく笑いかけてくれた。
に、にこっと笑ったその人は、とても美人だった。
細身ではあるのだが何しろ背が高いので、やたらと通り過ぎる人の人目を引いていた。
長い髪を赤いリボンで二つに結い、くるくると髪を巻いている髪型は、まるでテレビで見るアイドルのようだった。
白いシャツの上に、クリーム色の上着を重ね着した制服。上着の袖口には白い切り返しと赤いラインとレース、裾にはやはり赤いラインと白のレースがあしらわれていた。
胸元には特徴的な大きな赤色のリボン。
このデザインが人気で、制服目当てにこの学校を受験する女子生徒も少なくないという噂だった。
スカートは黒地に白いラインが幾重にも連なって入ったチェック生地で、今時の高校では当たり前なのだろう、膝上25cmぐらいの短さだ。
脚には紺色のハイソックスをはいていたが、もちろん膝までの長さはなかったので、スカートとハイソックスの間に見える絶対領域が眩しかった。
……などと彼女を見て、そんな事を思ったのはたまたま階段近くにいた人間たちだった。
ブルーはただ、突然現れた美人のお姉さんにポーッと見とれていた。
『きれいな人だなぁ……』
なんとなく校内を歩いてきたけれど、こんな華やかな美人女子高生に会ったのは初めてだった。
ぼーっとしてしまったブルーだったが、当初の目的を思い出した。
「あの、体育館ってどこにありますか?」
この高校の制服を着ているから、きっとこの人なら知っているだろうとブルーは思って聞いてみた。
すると女子高生はブルーにその手を差し出した。
手を差し出されて、なんとなくその手を繋いだ。
歩き出すのに引かれてブルーも歩き出した。
『体育館に連れて行ってくれるのかな?』
そのままなんとなく連れられるようにして、一緒に校舎内を歩いた。
初対面の人と一緒に歩いているなんて、シンやフレイヤやマリアが知ったら「知らない人について行ったらダメ!」と怒りそうだ。
でもなんとなくなのだけれど、この女子高生といると不思議な安心感があった。
横を歩く女子高生を見上げると、女子高生もブルーににっこりと笑顔を返してくれた。
てくてくと賑やかな校内を二人で歩いていたが、ブルーはふと思いついた事を聞いてみた。
「おねーさん、おねーさんはジョミーを知ってますか?」
そう聞いた瞬間、繋いでいた女子高生の手に力がこもった。
けれど一瞬でそれは緩んだ。
ブルーはそれを不思議とも思わず、話を続けた。
「ジョミーは僕の家の隣に住んでるんです。この高校に通ってるから、さがしてるんだけど……」
女子高生はブルーを見ながらふるふると首を横に振った。
「そっかあ……」
どうやら女子高生はシンの居場所を知らないらしい。
もしやと思って聞いただけだけれど、ブルーはちょっとしょんぼりとしてしまった。
すると突然、女子高生の手が離れた。
「おねーさん?」
驚いたブルーだったが、いきなり目の前にクレープが差し出された。
どうやらたまたま前を通りかかった模擬店で買ったものらしい。女子高生の背後の教室の引き戸には、「クレープ」と書かれた紙が貼ってあった。
「……僕に?」
女子高生は頷きながら、笑顔でそれをブルーに差し出していた。
「ありがとう!」
ブルーはそれを受け取ると、すぐにそれにかぶりついた。
口にしたそれはブルーが大好きな、甘いチョコと生クリームとバナナがたっぷりと入ったクレープだ。
「おいしい!」
ブルーの返事に、女子高生は嬉しそうに笑った。
それからも道すがら、女子高生はブルーにクッキーやチョコバナナ、たこ焼きや焼きそばなど、様々な食べ物を買ってくれた。
「お、おねーさん……。もう持てないよ」
あっという間にブルーの両手は食べ物で一杯になってしまった。
その様子に、あら、というように女子高生は苦笑した。
あまり人気のない校舎の端の日当たりのいい場所に、二人は並んで腰掛けながら話をしていた。
「でね、ジョミーってすごくカッコいいんだよ。勉強もできるし、スポーツだってすごいんだ」
とはいっても屋台で買ってもらった食べ物を食べながら、ブルーが一方的に話しているだけだったのだけれど。
「とっても優しくてね、僕といつも遊んでくれるんだ」
女子高生は頷きながら、ブルーの話を聞いてくれていた。
知らない女子高生相手に、ブルーはまるでシンといつも話しているみたいな気持ちになっていた。
よくよく見ると、女子高生は髪の色も瞳の色もシンとよく似ていた。
「……僕、どこかでおねえさんと会った事がある?」
ブルーには聞こえなかったが、ぎくっと女子高生の心臓の鼓動が激しくなった。
否定するように、ぶんぶんと女子高生は首を横に振った。
くるっくるの巻き髪も一緒になって激しく揺れていた。
「そっかあ……。でもどこかで会ったような気がするんだけどなあ……」
ぎくぎくっと、再び女子高生の心臓が高鳴った。
「うーん……」
ブルーはどこでだったろうと考え込んでいた。
その時不意に、遠くから誰かの大きな声が聞こえた。
「ジョミー!!」
「え?」
驚いたブルーが振り向くと、30メートルほど離れた場所から、一人の女子高生がこちらに向かって手を振っていた。
こちらを向いて大声を出しているのだから、とするとこの近くにシンがいるのだろうか。
「ジョミー? どこ?」
ブルーは立ちあがり、周囲をきょろきょろと見回した。
しかしジョミーの姿はどこにも見当たらず、知らない人が行き過ぎるばかりだった。
「あれ、おねーさん?」
気がつけば今の今までブルーの隣にいた女子高生の姿が消えていた。
「おねーさんもいなくなっちゃった……」
いつの間にかその場に残されたのは、ブルー一人になっていた。
先ほどまでブルーと一緒にいた女子高生は、校舎の影に隠れながらこっそりとブルーの様子を伺っていた。
ブルーはしばらく周囲を見回していたが、目当ての人物が見つからなくて諦めたのか、再びその場に座り込むとたこ焼きを食べ始めた。
その様子に女子高生はやれやれと胸を撫で下ろした。
女子高生の手で口を塞がれ、校舎の影に引っ張り込まれたもう一人の女子高生───ニナは、緩んだ手から逃れて声を荒げた。
「何やってるのジョミー、出番よ!」
「頼むから大声で呼ばないでくれ!」
美人女子高生が発したのは、紛れもなく男の声だった。
先ほどまでブルーと一緒にいた女子高生は、本物の女子高生ではなく、シンだった。
別に好きで女装をしていた訳ではない。
ブルーには誤魔化したが、シンのクラスの今年の出し物は、体育館のステージで某女性アイドルグループの歌とダンスを披露するというものだった。
よくある企画だが、ちょっと違っていたのは全員が「女性アイドルになりきろう!」というものだった。
男子の反対など女子のパワーの前には儚く押し切られ、「クラス全員参加」という御旗の下、全員が女子の制服を着る羽目になった。
シンのように背の高い男子生徒の制服は、バレー部やバスケ部の長身の女子生徒から借りて来られたものだった。
しかしシンは、ステージに上がるつもりなどなかった。
家でアイドルグループのPVも見たし、練習にも参加したが、本番のステージは逃げるつもりだった。
教室で着替え、ウィッグを被りメイクをし、体育館に移動して、もう少しで本番という時間帯。シンはクラスの女子の目が緩んだ隙にまんまと逃げる事に成功していた。
さっさと着替えようと教室に戻る途中で、なぜかやって来ていたブルーに出会ってしまうという不測の事態さえなければ無事逃げおおせていた筈だった。
シンのクラスの出番まではあと10分もない。
ニナは目ざとく、シンが一緒にいた子供が誰なのかに気づいていた。
「あの子って確か、ジョミーの本命のブルーよね?」
「それがどうした」
「あの子に知られたくないのね、自分がジョミーだって」
「当たり前だろう」
誰が好き好んで女装姿など見せたいものか。そんな趣味があるならともかく、シンにはこれっぽっちもそんな趣味はなかった。
「黙ってあげてもいいわよ。ジョミーが逃げずに舞台に立ってくれるなら」
ニナはしっかりとシンの逃亡にも気づいていた。
「出るわよね?」
「…………」
シンの返事はない。けれどここで引き下がるニナではなかった。
「出ないって言うならこの場であの子の事を呼ぶわよ。あなたが捜しているジョミーはこの人で〜すって」
「……分かったよ」
「そうこなくちゃ! うふふ、センターよろしくね!」
『仕方ない……。ブルーにさえ見られなければ、後はもうどうでもいい……』
そうして体育館のステージの幕は上がり、シンたちのクラスは無事出し物を披露できた。
それはそれは見事な、特にセンターの美少女ぶりと踊りが素晴らしいステージだった。
体育館からはものすごい歓声が聞こえたが、チョコバナナを食べるのに夢中になっていたブルーは、結局体育館へ行くのをころりと忘れてしまった。
その後、校内で(普段通りの姿に戻った)シンと無事に会い、夕方になって一緒に帰宅したブルーは、フレイアにこってりと怒られた。
叱られて反省もしたけれど、それよりもブルーはシンの高校へ行った興奮の方が勝っていた。
「ねえねえ、ジョミー」
「ん?」
二人きりになった時、ブルーはシンにだけこっそりと教えてくれた。
「僕ね、今日の文化祭で、すっごくきれいなおねーさんに会ったんだよ!」
「ふ、ふーん……」
ブルーが嬉しそうなのはいいけれど、自分の女装姿について聞かされるのは、例え褒め言葉でも複雑な気持ちになるシンだった。
そんなシンの胸の内など知らぬまま、ブルーは首を傾げた。
「でも僕、あのおねーさんに前にどこかで会った気がするんだけどなあ……」
「ブルーの気のせいじゃないかな?」
「ううん、絶対どこかで会った事あると思うんだ。どこだったかなあ……?」
「…………」
「また来年文化祭に行ったら、おねーさんに会えるかな」
「どうだろうね」
頼むから思い出さないでほしい───というか気付かないでいてほしい。
ブルーには楽しい文化祭だったようだが、シンにとっては散々な、疲れ果てた一日だった。
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