exceeding thousand nights ・20



   天体の間は初めて訪れた時と同じく、神秘的な雰囲気が満ちていた。
   階段の最下段に一人の男───アルフレートが座り、手にした竪琴を奏でていた。静かな部屋の中には澄んだ音楽が流れ
  ていた。
   そしてフィシスがいた。ターフルに向かって座ってはいるが、占いはしていない。
   ただ奏でられる音色に耳を傾けているようだった。
   ターフルの上にはレインが丸くなっていた。
   と、レインが耳をそばだてた。
   シンたちがアルフレートの横を通り、階段を上ってきたからだ。
   竪琴の音に重なるそれに気づいたのか、フィシスは盲目の瞳を足音の方に向けた。
   ターフル越しに足音が止まり、まさかという気持ちで口を開いた。
  「ソルジャー……?」
  「……久しぶりだね」
   答えた声は紛れもなくシンのものだった。
   フィシスは僅かに驚いた。
   ブルーに地球の記憶を見せて意識を失わせてしまった後、シンはまったく天体の間へはやって来なかった。
   どうしたのかと問う前に、フィシスはシンの後ろにいる者に気づいた。
  「まあ、ブルー……!」
   声に喜びの色を滲ませたフィシスが、思わずという風に席を立った。
   余程嬉しいのか、ブルーの前まで駆け寄ってきた。
   目が見えていないのが信じられないような、軽やかな動作だった。
  「ブルー、貴方なのですね」
  「お久しぶりです、フィシス……様」
   おずおずとフィシスの名を呼ぶブルーに、フィシスは違和感を感じた。
   呼び捨てにしてほしいと言ったのに、ブルーはそうしなかった。
   けれど今はシンがいるので、その事には触れずにおこうと決めた。
   それよりもブルーに逢えた嬉しさが優っていた。
  「よく来てくださいました、ブルー」
   感極まったフィシスは、ブルーの手を握ろうとその手を伸ばした。
   しかしその手は、シンに止められた。
   乱暴な動作ではなかったが、シンの手がフィシスの手首を掴んだのだ。
  『ブルーには触れるな』
  『…………!』
   それはブルーには聞こえないように、接触テレパスで命じられた。
   何よりそう命じるシンの瞳は冷たく、とても譲歩してもらえる余地はないだろうと、瞬時にフィシスに悟らせた。
   シンが手を離すと、フィシスは伸ばしかけた手をゆっくりと引いた。
   その様子を目にしたアルフレートは、竪琴を奏でるのを止めて階段を駆け上がろうとした。
  「フィシス様!」
  「いいのです、アルフレート」
  「しかし───」
  「下がっていてちょうだい」
   気色ばむアルフレートを、フィシスの静かな声が制した。
  「はい……」
   心酔するフィシスに言われて、アルフレートは不満げに、けれど大人しく天体の間を下がった。
  「あの……?」
   ブルーには目の前のやりとりがまるで分からなかった。
   表情を曇らせるブルーに、シンは微笑んだ。
  「何でもないよ、ブルー。そうだろう、フィシス」
   シンはブルーに向けた視線を、そのままフィシスに向けて同意を求めた。
  「ええ……」
   フィシスはそれに頷いた。
   頷くしかなかった。
  「ブルーを連れて来て下さって……ありがとうございます、ソルジャー・シン」
   フィシスのつぶやきに、けれどシンは答えなかった。
   本当は会わせたくなかった。
   二度とフィシスとブルーを会わせるつもりはなかった。
   けれどブルー自身に会いたいと言われれば、シンにそれを止める術はないのだ。
   ───と、ターフルの上にいたレインが、ブルーの肩にぴょんと飛び乗ってきた。
  「レイン!」
  『ぶるー!』
   レインは逃げなかった。
   それどころか嬉しそうに、ブルーの頬をペロペロと舐めた。
  「あはは、くすぐったいよ」
   じゃれつくレインに、ブルーは声を上げて笑った。
  「今日は逃げないんだね、レイン」
  『…………』
   フィシスが寂しそうにしていたから、ブルーに天体の間に来てほしくて、だからレインはブルーに会いに行ったのだ。
   けれど今はシンが傍らにいるので、とてもそうは言えなかった。
  『キテクレテウレシイ、ぶるー』
   やっとそれだけ伝えて、レインは嬉しそうにブルーの頬に頬ずりした。


   天体の間で、三人でお茶を飲みながら静かな時間を過ごした。
   しかし話をするのはフィシスとブルーが主だった。
   レインはブルーの膝で丸くなっていた。
  「ブルー、体の方は大丈夫なのですか?」
  「はい、元気です。あの……この間は倒れたりしてすみませんでした」
   ブルーは頭を下げた。
   その事を謝りたくて、ブルーはフィシスに会いに来たのだ。
  「貴方が謝る事はないのですよ。むしろ謝らなければいけないのは私の方です」
  「でも……」
  「それより、貴方がまたこうして訪ねて来て下さったことが嬉しいですわ」
   フィシスは優しく、まるで女神そのもののような慈愛に満ちた微笑みをブルーに寄越した。
  「お仕事の方はどうですの? ソルジャーはお忙しいから、補佐とはいえ大変でしょう?」
  「まだ、全然ダメです。いろんな事を教えてもらうばかりで───」
   二人の話は尽きることはなかった。
   それを、シンはただ黙って見つめていた。
   ……こうしていると昔を思い出す。
   彼が生きていてくれた頃。
   ベッドから起き上がれない日がほとんどだったけれど、フィシスを交えて三人でよくこんな風な穏やかな時間を過ごしていた。
   あの頃もシンは、彼とフィシスの関係に嫉妬していた。
   耳に付けている記憶装置に残された記憶を辿れば、彼のフィシスへの想いは恋愛感情ではなかった。
   けれど理屈ではない。
   彼が大切に想うもの───それがどんな意味を持ったものであれ、彼にとって「大切」だというだけで、シンの胸を平静にさせ
  てはくれなかった。
   100年経っても変わらないのかと、シンはそんな物思いに一人自嘲した。


   ひとしきり天体の間で過ごし、そろそろ夜も更けるという時間になって、おもむろにシンが口開いた。
  「ブルー、そろそろ帰ろう。君はもう休んだ方がいいし、フィシスにも迷惑だ」
  「あ……はい。すみません」
   シンに促され、ブルーは慌てて腰を上げた。
   そのせいでブルーの膝にいたレインは、床に飛び降りざるを得なかった。
   シンも席を立ち、ブルーを連れて天体の間を去ろうとした。
   その前に、フィシスがブルーに声をかけた。
  「ブルー、お願いがあるのです」
  「はい?」
   振り向いたブルーに、フィシスはその願いを切り出した。
  「時々こうしてここにいらっしゃってもらえませんか?」
  「フィシス様のお邪魔でないなら……。あ、でも───」
   返事をしかけたブルーは、シンを見上げた。
   今のブルーはシンの補佐という立場上、シンの許可がなければいけないのではないかと思ったのだ。
   ブルーの青い瞳に見つめられ、シンの翡翠色の瞳が僅かに眇められた。
   ───閉じ込めてしまいたい。
  「……いいだろう」
   ───誰にも会わせずに、僕だけのものにしてしまいたい。
  「ただし、また倒れるような事はしないように。いいね?」
   シンはその本心とは真逆の事を口にしていた。
   ブルーはそんなシンの本心にはもちろん気づかず、嬉しそうに表情を明るくした。
  「はい!」
  「ありがとうございます、ソルジャー」
  「───……」
   フィシスがシンに礼を言ったが、シンはそれには答えなかった。
   今度こそシンとブルーは天体の間を去りかけたが、レインがブルーの後を追ってきた。
  『ブルー!』
   ブルーの足もとで、レインはその小さな身体をブルーの足首に擦り寄せた。
  「レイン……?」
   困惑したブルーは足を止めた。
   そんなブルーにフィシスが声をかけた。
  「連れて行ってあげてくださいな、ブルー」
  「でも……」
  「レインも貴方の傍にいたいんですって」
   フィシスの言葉を肯定するように、レインはその尻尾をふるふると揺らしていた。
  「一緒に来る?」
  『ウン……!』
   嬉しそうに返事をするレインを、ブルーは抱き上げた。
   その様子をシンが剣呑な眼差しで見つめているのに、ブルーは気がつかなかった。


   天体の間からの帰り道、シンはどうした事か苛立っているようだった。
   無言の緋色の背が、何とはなしにブルーにそれを伝えてきた。
   思い返せば、シンはフィシスとはほとんど話さなかった。
   それに、シンはブルーのためにわざわざ時間を割いてくれたのだと改めて気づいた。
   シンの後ろを歩きながら───とてもシンの横など歩けないブルーは、おずおずとその背に声をかけた。
  「あの……ソルジャー」
  「何だい?」
  「お忙しいのに……すみませんでした」
   振り向かず足も止めないシンに、ブルーは謝った。
   その不安そうなブルーの声に何かを感じたのか───シンは立ち止まり、振り返った。
  「構わないよ。君に何かあったらいけないからね」
   振り返ったシンは静かに微笑んでくれた。
   ブルーの胸中は申し訳なさで一杯だったが、シンの微笑みはそれを少しだけ薄めさせてくれた。
   まだ14歳のブルーの表情はいつも豊かで、そんな心情はすぐに見て取れる。
   その素直さに、けれどシンは僅かな不安を覚えた。
  「ブルー、君は───」
   何事かつぶやきかけたシンは、けれど途中で言葉を飲み込んだ。
   シンの言葉を待っていたブルーが、問い返してきた。
  「ソルジャー?」
  「いや……何でもない。今日も疲れただろう? 早く戻って休みなさい」
  「あ……はい」
   シンが言いかけた言葉が何なのか、ブルーは気になった。
   けれどこれ以上、シンに時間をとらせるのも気が引けて、ブルーは追及するのをやめた。
  「おやすみなさい、ソルジャー」
  「おやすみ」
   挨拶をして、レインを連れたブルーは居住セクションへ繋がる通路へ向かい、シンと別れた。
   シンはしばらくその場にとどまり、離れていくブルーの姿を見つめていた。
   先ほど問いかけようとしたのはフィシスの事だった。
   フィシスをどう思っているのか、問いかけようとして───やめた。
  「……分かってます」
   遠ざかる、ブルーの姿を見つめながら。
  「分かっています。貴方が愛してくれているのは、僕だけだという事は───」
   耳に付けた記憶装置に掌で触れながら、シンはつぶやいた。




子ブルとフィシスの再会です。
というかシンとフィシスの再会というか。狸vs狐というか……(^^;)
シンもフィシスも100年一緒に待っていた仲間なのに、いざ子ブルを挟むとこの二人は仲良くなってくれそうもないような。
シンが独占したがるからなんですけどね。
でもフィシスも負けてはいませんね。


2008.09.11





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